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わたしの自分戦略(1)
自分戦略で大切なこと

新野淳一(アットマーク・アイティ 編集局長)
2003/4/16

 将来の夢は? と子どものころよく聞かれたものです。「天文学者になりたい」「電車の運転手になりたい」「サッカー選手になりたい」などと無邪気に答えられました。そして、その夢の実現のために必要なことは一生懸命勉強したり、部活動に打ち込んだりすることであって、夢も、努力の方向も、比較的シンプルなものでした。

 大人になって多くの現実を経験して、いくつかの人生の節目で将来について考えを巡らせた後では、どういった人生を送りたいのか、そしてそれを実現するためのいわゆる「自分戦略」は、子どものころのそれよりもずっと複雑だったり具体的だったりするでしょう。選択肢も非常に多くなっているはずですし、これからさらに自分の知らなかった選択肢が現れるかもしれません。

 自分戦略を立てるための体系だった方法論は、残念ながら(まだ)ありません。しかし、@IT自分戦略研究所(そしてこの自分戦略研究室)では、この記事を皮切りにさまざまなITエキスパートに自分戦略を語っていただこうと思っています。そうすることで、自分戦略の在り方や考え方、そしてその意義が徐々に分かってくることを期待しています。

 その最初のサンプルとして、まずここでわたし自身のエンジニア時代を振り返ります。この先を読んでもらえば分かるのですが、わたしはエンジニア時代に自分戦略のようなきちんとした考えを持って仕事に取り組んでいたわけではなく、その時々の状況に流されるように仕事をしてきたといえます。そうした反省を赤裸々に見ていただくことで、皆さんの自分戦略を立案するときの参考になればと思います。

   あこがれのエンジニアへの第一歩

 わたしは中学生のころからいわゆるパソコン少年でした。大学では情報数学系の学科を専攻し、プログラマやエンジニアという職業にあこがれていました。そこで就職した会社は、当時コンピュータ業界でソフトウェア開発や出版で非常に元気のよかった「アスキー」です。いまから15年前のことでした。

 わたしのITエンジニアとしてのキャリアが始まるのは就職して3年目。営業部門からテクニカルサポート部門への異動をいい渡されたときからでした。当時、わたしのいた事業部では「Informix」と呼ばれるUNIX用リレーショナルデータベースを扱っており、テクニカルサポートの仕事は、SIer(システムインテグレータ)や顧客がInformixを利用したシステムの開発で発生した技術的なトラブルに対応することでした。

 この仕事は、技術的に幅広い知識と素早い対応が求められるうえ、トラブルでイライラした顧客とのコミュニケーションもしばしば発生するため、精神的なタフさも要求されます。しかも当時は、データベースのアーキテクチャがホスト型からクライアント/サーバ型へ移行する時代の真っただ中で、新しいアーキテクチャ、SQLやトランザクションなどのデータベース技術、TCP/IPなどのネットワーク技術、そしてサーバとなるUNIXやクライアントとなるWindowsの扱い方や仕組みなど、勉強しなければならないことが続々と登場してきました。

 この部署でわたしは、さまざまなシステム開発のトラブルへの対応に追いまくられ、その原因を調査するたびに技術を学んでいくといった感じで、めまぐるしく仕事をしていました。忙しい中でもさまざまな技術を幅広く学んでいくことは、コンピュータテクノロジが好きで、一流のエンジニアになりたい(つまりかなり漠然とした目標なわけですが)と思うわたしにとって、大変で忙しくとも有意義な仕事でした。

   いま学んでいる技術に将来性はあるか

 最初の1〜2年はとにかく仕事をこなし、必要な技術を身に付けるので精いっぱいでした。しかし徐々に自分のペースで仕事ができるようになると、やがていま学んでいる技術は将来役に立つのだろうか? という不安もわずかずつ感じるようになります。例えば、当時は将来のネットワークプロトコルの主流はTCP/IPからOSIへと移行していくといわれていましたし、一方でノベルのNetWareがネットワークOSとしての存在感を徐々に高めてきていました。IBMからはOS/2が登場し、やがてマイクロソフトからはWindowsもリリースされました。そのため、自分が身に付けているTCP/IPやUNIXなどの知識が5年後もまだ主流なのかどうか、心配になってきました。

 しかし、次々と仕事をこなさなければならない環境の中で、仕事とは直接関係のない技術を覚える時間も意欲も(そして能力も)、当時のわたしにはほとんどありませんでした。自分にとって未知の技術を気にはしつつも、それらへの知識の欠如から「どうせ大した技術ではないのだろう」と、高をくくっていたようなところさえありました。

 結果からいえば、当時学んだSQL、TCP/IP、UNIXなどの技術は、10年以上たった現在でも(多少古びてきましたが)重要な基礎技術であり、身に付けた知識は現在でも非常に役に立っています。ただしこれらの技術は、自分で選んで学んだわけではありません。たまたま仕事で必要だっただけで、わたしは運が良かっただけです。もしも、当時の仕事で要求されていた知識がdBaseとIPX/SPXとNetWareだったら、その後のわたしのキャリアはまったく違ったものになっていたかもしれません。

 想像するに、会社に就職し部門に配属された時点で、わたしと同じように仕事上で接する技術の種類はほとんど決められてしまうことが多いかもしれません。しかしたとえ自分で技術が選べないとしても、その技術を身に付ける気になるかどうかは自分で選べます。一般論では、ネットワークやプログラミングに関する技術を何か1つきちんと身に付ければ、ほかの技術を学ぶときにも応用が利いて理解が早いといいます。わたしもそう思います。当時のわたしに誰かがそういったことを教えてくれたわけではありませんが、わたしの場合は、もともとコンピュータテクノロジが好きだった点がうまく作用して、仕事を通して技術を学ぶチャンスをうまく生かせました。仕事と自分の興味がうまくマッチしたことが、そうしたチャンスを生かせる土台になっていたのでしょう。

   エンジニアの先には管理職しかないのか

 さて、当時のわたしにはもう1つ別の、そしてずっと大きな不安がありました。それは「このキャリアの先に何があるのだろうか」という不安です。テクニカルサポートの次のステップとして何が考えられるのか、このまま10年先も同じ仕事をしているのか、それとも違うキャリアは存在するのかなど、先の見えない自分の将来像についてです。

 当時のわたしに思いついたのは、会社が大きくなり、組織が大きくなり、その中で出世して管理職になるという単純な将来像でした。しかしそれでは、いま優秀なエンジニアを目指して技術を身に付けている意味がありません。せっかく身に付けた知識や技術も、管理職になれば発揮する場面は減るし、新技術を肌で感じ、身に付けるチャンスも減ることでしょう。いくらいい給料をもらっても、コンピュータテクノロジに接することが好きな自分にとって、そういう立場は願い下げです。だからといって、この先のキャリアパスが想像できなければ、仕事への意欲も低下し、より高度な技術を身に付けるという目的意識も薄れてきます。

 もちろん、エンジニアには管理職以外の道もあります。例えば、非常に優秀な一握りのスーパープログラマの仲間入りを目指したり、プロジェクトマネージャのような上級エンジニアを目指したり、コンサルタントのような技術経験を生かした職業へ移ったり、システム運用や管理といった新しい分野のエンジニアを目指したり、といったものです。

 しかし当時27、28歳のわたしはまだ未熟者で、エンジニアのキャリアとしてこうしたさまざまな選択肢が世の中にはあるのだ、といった知識でさえ十分に持っていませんでした。わたしは「コンピュータテクノロジに接することが好きだ」という自分の気持ちはよく知っていましたが、それを基にした将来像としては漠然と「一流のエンジニアになりたい」と思うだけで、将来の具体的な選択肢については、乏しい知識しかなかったのです。

 こんな感じで自分の将来像に不安を持ち、どの方向へ努力すればよいのかがだんだん分からなくなってきたわたしは、この時点でエンジニアとしての自分戦略をきちんと立てることができなかったといえます。誰かがわたしにアドバイスをくれれば、いくつかのキャリアパスの選択肢の中から自分の気持ちに合う将来像を発見し、努力する方向を見つけ、それを自分戦略にできたかもしれません。しかし、当時のわたしの周囲にはそうしたアドバイスをくれる人はいませんでした。

   二度とエンジニアには戻れない

 相変わらず一生懸命仕事をしつつも、エンジニアとしての将来にやや不安を抱えるようになったわたしは、異動から5年後の1995年、エンジニアのキャリアを終えることを決断しました。その約半年前に出版部門から声が掛かり、コンピュータ雑誌の編集者にならないかと誘われていたのです。パソコン少年だったわたしはプログラマやエンジニアという職業にあこがれがあったため、エンジニア以外のキャリアを選択する気になかなかなれませんでした。また、技術の流れの速さと自分の能力は分かっていましたから、一度この職業から離れたら、恐らく二度とエンジニアに戻ることはできないだろうとも思っていました。

 しかしコンピュータ雑誌の編集者なら、誰よりも先に新製品をさわることができたり、発表前の情報を入手したり、普段なら会えないような優れた技術者や研究者の話を聞けるなど、エンジニアとは違った立場で常にコンピュータテクノロジに触れていられる、という点は魅力的でした。そして、前述のようにエンジニアとしての自分の将来像がよく見えない不安と、編集という仕事への興味のバランスは、徐々に後者へ傾いていきました。そして数カ月考えた後に出版部門へ異動することにしたのです。

   大切なこと

 それ以来8年間、わたしは編集者として働いていて、幸運なことにこの仕事が気に入っています。エンジニア時代に必死で身に付けた知識や経験は、この仕事で成果をあげるのにとても役立っています。

 振り返ると、わたし自身にはエンジニアとしての立派な自分戦略があったとはとてもいえません。しかし「自分にとって好きなことは何か、大事なことは何か」はいつも分かっていました。もちろんこれだけでは自分戦略として十分ではありませんが、目標や努力の出発点はここにあるのです。はっきりとその出発点を自覚できていたことが、自分にとって一番の幸運だったのではないかと思います。

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