第1回
警備員からスタートしたキャリアアップ
遠竹智寿子2001/5/22
■SEへのきっかけとなった大学時代の研究
大学で、工学部の精密機械工学科に入学。精密機械工学とは、自動車など大型機械を手がける機械工学に対し、カメラ、時計、精密測定器などの精密機器に関連した学科だ。精密機械工学科を選択したのは、もともと理系向きだと考えていたのと小型機械が好きだからで、特に将来の展望があるわけではなかった。
館野氏は「光学解析」の研究室に所属。在学中に担当教授の研究「自由曲面の創成」に参加した。自由曲面の創生とは、この世に存在するあらゆる曲面・曲線は、方程式化できることを証明すること。その証明の1つとして、プログラムを組み、得られた方程式をグラフで再現していた。担当教授がそのプログラムを学会発表で利用したことで、SEを目指すようになったという。
■巡回警備員から始まったキャリア
SEを目指した館野氏が内定を受けたのは、某大手警備会社。彼は内定の時点で就職先を同社に決めた。その理由を館野氏は、「ベンダよりユーザーサイドの企業だったことと、センサーなどの精密機械を自社で製造していたので、それにも興味があったこと。それに安定した企業だったことですね」と、当時の本音もちらっと告白。
念願かなって入社するも、入社後1年4〜5カ月間は、現場研修としてBE(ビートエンジニア)を務める。 BEとは、警備機器の取り付けや交換を行いながら警備員としても働く巡回エンジニアのこと。新入社員全員が経験させられる職務だそうだ。
入社翌年の8月にSEとして配属されるまでの間の奮闘記がすごい。警備巡回中、シンナーを吸っていた少年たちに袋だたきにあいながらも犯人を取り押さえ、小平警察署に表彰されたという逸話を持つ。さらのその後、外国人窃盗団に出くわし、警察の応援で命拾いをしたこともあるという。
その後昇級試験、センサー取り付け技能試験、それに実地試験で見事上位点を獲得。こうして、念願のSEとして配属となり、IBM(3090/3191)のVANサービス(NMS)で、顧客向け課金プロジェクトの仕様書作成からプログラミングまで携わることとなる(1システム50プログラム中の7〜8プログラムを担当)。さらにMS-Access、VisualBasic、Access Basicを使った課金システムのクライアント・モジュール開発も手がけた。
「とにかく気付くと朝で、家に帰って風呂に入り、そのまま会社に戻るという生活でした。この1年は無我夢中で、普通の生活での3倍ぐらいの勉強をさせてもらったと思います」と、懐かしそうな館野氏。
■さまざまなスキルの土台は業務で培う
その後、新しく立ち上がったインターネット推進プロジェクトで、インターネット、UNIXに触れ、その後の基盤となるさまざまな経験を積んだ。さらに会社全体のWebマスターを任せられる一方、顧客向けのWebコンテンツ作成サービスも手がけ、この時代にHTML、Java、CGI(Perl)を学んだ。
しかし、当時はインターネットの認知度も低く、ビジネス的には成功しなかったため、部門は1年程度で解散。館野氏は、Windows NTにかかわっていたこともあり、SI(システムインテグレーション)部隊に配属となる。ここでWindows NTのシステム構築を手がける。顧客の社内PC環境の整備、Windows NTサーバ環境の提案から立ち上げまでを経験。このときに「Lotus Notes」にも触れ、さまざまな案件をこなす。
このSI部隊で館野氏は、全体を管理しながら外注や新人を引っ張る立場になった。この時期の名刺の裏には、取得した数多くの資格が記されていたという。IBM系の資格(複数)のほか、NetWareの資格、MCPなどもこの時代に取得。
館野氏は、重要なのは資格ではないという |
そのことについて尋ねると、「自分では、資格にあまり意味を感じていないため、いまも何を取得したのかを覚えていないんです。製品をお客さまに売るということは、自分なりに勉強しなければならないですよね。それは、資格ではないのではないか、資格がなくてもお客さまにシステムを提案して売っていけるエンジニアになろうと思ったんです」とのこと。
しかし、資格を持たずに資格は意味がないと公言するのも恥ずかしい。そのためにも資格を取り続けたという。そんな彼が自分の意思で取得しようとしたのがオラクルの資格だ。
「矛盾しているかもしれませんが、資格のために勉強をして初めて学ぶこともあるわけで、特にオラクルは何をやっていくうえでも武器にもなりますしね。データベースでの基本的な考え方は、オラクルから学んだ部分が多いです」
だが、Netwareの資格については、「言葉のあやであるというのかな、こう聞かれたらこう答えるといった部分が多く、特に何かの役に立ったとは思えないですね。もちろん、Netware自体はすごく好きな製品ですが」と答えてくれた。
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館野氏の某大手警備会社時代の主な業務(スキル) |
■転職した理由はインターネット
館野氏はその後、日本シリコングラフィックス(現日本SGI)に転職する。しかし、勤務していた警備会社は、多くの開発部隊を擁する大会社であり、社内でも十分チャレンジできると思っていた館野氏は、特に転職を希望していたわけではない。ではなぜ、当時ベンチャー企業であった日本SGIへの転職を決断したのか?
顧客と接することが多かった館野氏は、インターネットに触れたとき、いかに自分の視野が狭かったかを思い知らされた。
館野氏は、「インターネットというのは、対会社ではなくて対世界、インターネット・サーバをお客さまが導入するということは、そのお客さまを世界とつなげること。これこそが自分のやりたい方向性ではないか。そのため、インターネット部門で勉強したことを役立てたい」と考えるようになったという。
「ホスト開発に携わったとき、何十年も経験を積んだスペシャリストを尊敬はしましたが、ぼく自身は1つのことをずっと続けるとは考えられませんでした。インターネットにこだわらず、常に新しいことをどんどんやれる部隊に魅力を感じていましたし、社内での転属希望もお願いしていたのですが」
しかし、その夢はかなわず。そのとき、インターネットの部門で影響を受けた元上司のツテもあり、インターネットのエンジニアとして日本SGIに転職する。
■初めて経験した壁をバネに
日本SGIでは、インターネット関連技術と製品担当のSEとなり、さらにハイレベルなコンテンツ技術や製品の担当にもなった。
順調に見えた転職だが、館野氏はUNIXですぐに大きな壁にぶちあたる。日本SGIの所属グループのエンジニアは、それぞれの分野で日本を代表するような人材ばかり。UNIXの導入に携わった程度の知識では、何もできないことをはっきりと自認したという。
「半年から1年間は悩みましたが、恥ずかしいという以前のレベルだと開き直りました。初心に戻り、基本から学び直す姿勢で挑みました。わからないことはすべて聞く姿勢で、多くを教えてもらいました」と館野氏。
さらに館野氏は、日本国内と米国本社でSEトレーニングを何度も受講し、各種技術を取得する。この時期にビジネス英語も身に付けた。
国内では自分1人だけの担当製品も多く、米国本社だけが頼りであったため、電話やメールでのやりとりは必須。仕事として使う英語に不安があったものの、次第に英語を操るコツを自分のモノにしていく。
VRMLがどれだけ優れた技術かを館野氏が力説し、デモを見せながら解説 |
技術系の人に英語は必要かとの問いには、「まったく新しい技術は日本でも出るだろうが、欧米の比ではないと思う。やはり海外に求める技術が大きいわけで、その技術を情報収集し、勉強していくうえで、英語は不可欠。また、外資系企業への転職を考えている人は避けられませんね。マニュアルがローカライズされるまでは、当然英語版しかない、またワールドワイドでのコミュニケーションは英語になるわけですから」と明快に答えてくれた。
このころの日本SGI時代の経験をどう思うかと館野氏に聞くと、「とにかく、いままで縁のなかったグラフィックスの世界で多くの勉強ができたことは、とても幸せだったと思っています。セミナーでの講師など、貴重な体験も数多くさせてもらいました」という。
その後、データマイニング技術・製品の担当に。このとき、ほとんど統計解析についての知識がなかったため、猛スピードでスキルを身に付けなければならなかった。実例や事例を知るため米国に出向いたり、統計学の書籍を読みふけったりして学習した。データウェアハウス(DWH)についても、米国の担当者とやりとりできるだけのスキルをたたき込むために徹底的に勉強した。
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館野氏の日本シリコングラフィックス(現日本SGI)時代の主な業務(スキル) |
■再度転職しようとした決意の理由は?
そんな館野氏が再度転職を決意し、コンパックコンピュータに移ったのは、どのような理由があったのだろう?
「日本SGIでは、売る製品も立場も決まっていて、それ以外の製品や技術は競合し、やりたいことがあっても絞られてしまっていたわけです。もっと世の中にいいものを提案して取り入れてもらいたいと考えたときに、コンパックのシステム部隊の姿勢、つまり自社製品や技術にのみ依存しないで何でも売るという発想にあこがれましたね。何でもチャレンジできる環境に行きたかったんですよ」と、転職前のコンパックに対する思いを語る。
日本SGIでは、コンパックのPSD(Professional Services Divisionの前身である旧DECのSI部隊)と競合していたが、彼らの提案をうらやましく思っていたという。
入社後、プロジェクトのマネージメントが9割を占め、自分でプログラムを書くことはほとんどない館野氏だが、それについて特に違和感はないという。
「デモにせよ提案にせよ、客先に出ていくのが好きですし、顧客とのコミュニケーションを通じてのかけ合いには自信があります。いまは社内がその顧客であると感じていますから、やりがいはありますよ」と、前に乗り出すようにして館野氏は語ってくれた。
■今後のスキルとキャリア
今後、身につけたいスキルとして、「技術者としては、これといって特化したものはなく、常に新しいことに挑戦し、自分の得意分野や武器にすることは必要だと思います。その意味では、ぼくの現在のキーワードの1つはモバイルかも知れません」と語る。
さらに、ブロードバンド時代を考えると、ITエンジニアに求められるものが変化してきていると感じるという。
さまざまな環境による制限が取り払われ、妥協のなかで技術を駆使していたものが、今後はクオリティ重視になるのではないかと考えている。技術者は先を見つめて、どれだけ新しいものを提供していけるか、また、ユーザーがどれだけ有効に使えるかに関心があるそうだ。
中堅エンジニアにさしかかったいま、人材育成の能力を身につけたいと言う館野氏。若い人に教えるという偉そうな立場ではなく、リーダーと仲間といった関係を築きたいと願っている。
「例えば5人いたら、それぞれがスペシャリストになる集団を作るのが夢かな。そういった立場になるには、それなりのスキルやスピードが必要ですし、コミュニケーション能力も身に付くよう努力したいですね」
何度か転職をすると自身もついてきて、反面ドライな面もでてきたと自認する館野氏。常に勉強は必要だが、会社に特化した業務だけではだめだと感じている。彼自身のエンジニアとしての信念は“1つの技術に枯れない、1つの会社に溺れない”だ。
常に前向きで新しい分野にチャレンジする館野氏。彼のスキルとキャリアを裏から支えた本は何か?その答えは「エキスパートに聞く ぼくのスキルを支えた本 」に! |
Index | |
最前線で必要なスキルとキャリアを知る! | |
警備員からスタートしたキャリア(1/2) | |
警備員からスタートしたキャリア(2/2) |
「連載 最前線で必要なスキルとキャリアを知る!」 |
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