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第10回
英語を学び、海外でスタートしたエンジニアへの道

加山恵美
2003/1/22

日本の大学でコンピュータを学んだ後、中島氏はアメリカに行く決心をした

■両親からの提案で方向転換

 中島氏は日本の大学でコンピュータを学んだ。言語は主にPascalやCが中心だったという。当時、海外で働こうという意思はなく、大学院への進学を考えていた。少なくとも大学院への受験前日までは……。

 受験前日、彼は電話で両親と話をした。親は「もし大学院に落ちても、アメリカで学び直すという方法もあるから」と彼を励ました。その言葉に彼は「それもいいかも」と、思うようになった。その後、無事に大学院に合格したものの、アメリカ進学に向けて準備を始めた。それは研究室の雰囲気への反発と誤解もあったようだ。

 「大学の研究室の雰囲気が厳しかったので、自由を求めていました。アメリカなら自由があると思ったのです。当然、後からそれは誤解だったと気付いたのですが」という。何が誤解だったのかと尋ねると、「アメリカに行けば何でもできるような気がしていました(笑)。しかし、実際は違いました」と照れながら話した。アメリカで現実と向き合い、努力の必要性も学んだようだ。

■ニューヨークに行きたかった

 アメリカの学校に入る前に、たいていの留学生がするように、彼もELP(English Learning Program:英語学校)で英語を学んだ。「私は半年間のコースを受講しました。私以外にも多くの日本人がいましたが、脱落者もかなりいました。東海岸のニューヨークを選んだのは、特に理由もなく、ニューヨークに行きたかったからです

筆者注:2001年の同時多発テロの実行犯は全員が学生ビザでアメリカに滞在していた。そのため、それ以降は学生ビザ所有者の取り扱いが厳しく強化された。現在ではELPで落第すると大学進学どころか、帰国命令が出ることもあるようだ。

 それまでの彼は特に英語が得意だったわけでもないのに、さほどちゅうちょすることもなく、海外へ飛び出してしまった。異国の地で生活しながら、自分のイメージと現実とのギャップを埋めていった。「ニューヨークは『人種のるつぼ』だと思っていましたが、そうでもありませんでした(笑)。スパニッシュ系が多かったですね。ニューヨークにいる間はマンハッタンのアップタウンにあるアパートに友達と住んでいました。町並みは思ったよりも汚かったですね

 マンハッタン生活時代に、彼はブロードウェイを端から端まで歩いてみたこともあるという。まるで軽く近所を散歩したかのような口調で話すが、ブロードウェイは東京の山手線を1周するほどの距離がある縦長のマンハッタンを、斜めに縦断する大通りだ。全線を歩くのは不可能ではないとはいえ、かなりの長距離だったに違いない。彼はそうやって過酷で突飛な行動をあっさりと貫徹してしまうようだ。

 ELPはアメリカにおける外国人大学進学希望者の登竜門的な存在でもあるので、進学先の相談にも親身に応じてくれる。そこでITを学べる学校を探し、TCIへの進学を決めた。TCIはITに特化した教育機関である。中島氏はTCIを選んだ理由を「設備が充実していること、企業へのコネがあり、就職に有利だと評判だったため」と語った。

ニューヨークでITに特化した教育機関であるTCIで学ぶことにした

■ITの実践訓練と文化の違い

 TCIは大都会のビルの一角にキャンパスがある。中島氏はアップタウンのアパートから、地下鉄でマジソンスクエアガーデンのすぐそばへと通学する学生生活を送った。TCIでは主に午前が授業、午後は実践訓練で過ごした。授業はIT関連だけではなく、歴史などの一般教養もカリキュラムに含まれていた。「TCIは実践重視で1人につき3台のパソコンが割り当てられて、自由に実践訓練にいそしむことができました」。大学の研究室と違い、自由な実践訓練の時間を持てて、彼は満足だったようだ。

 TCIでは、MCSE取得が努力目標の1つとして掲げられていた。しかし、彼がいた年に資格を取得する人はほとんどおらず、彼を含めて大半がMCP止まりだったという。それは資格取得が軽視されていたからではなく、時期が理由だった。「ちょうど私が在学していたときは、Windows系サーバがNTから2000へと切り替わる直前でした。そのため、NTでMCSEを取得してもその技術はすぐ陳腐化してしまうのでは、という理由で、取得する人はあまりいませんでした。ただし学校も生徒も『資格はあった方がいい』という認識を持つ人が多かったです

 学内では日本人はほんの数人しかおらず、あとは外国人だらけだった。そんな環境からあらためて文化の違いを肌で感じることになる。「よくいわれる日本人の長短を実感しました。時間に正確であるなどきちょうめんな長所、その半面、意思表示があいまいで自己主張をしないという短所があることです。他国の生徒はおおむねとても活発でした。彼らは、よくも悪くも先生を尊敬していない人が多く、本筋とは違うことで授業を中断させてしまう生徒もしばしばいました。先生の権威が高い日本では、あまり考えられないことです

■卒業直後にテロに遭遇

 2001年9月、TCIを卒業し就労ビザの発行を待ちながら、就職活動を始めた。アメリカのIT企業への就職を希望していたのでマンハッタンに残り、人材紹介会社に履歴書(Resume)を送付したり、Webサイトにそれを登録したり、ということを始めた。ちょうどそのころ、世界を揺るがせたあの米同時多発テロを体験することになる。

 9月11日の早朝、中島氏は前日から泊まりに来ていた友人を空港へ送った。帰宅して、もう一眠りしようかと思った矢先だった。友人が電話で「地下鉄が全市規模で止まっているらしい」と動揺しながら語った。慌ててテレビをつけてみたが、映像は表示されない。何か大変なことが起きたと直感した。

 幸いなことに、中島氏はアップタウンにいたので無事だった。しかし、親せきや友人は彼の安否を心配し、帰国を勧めた。しかし、あくまで彼はアメリカでの就職を希望していたので、そのまま残って就職活動を根気強く続けた。実は、こうした彼の海外企業就職へのこだわりは、ちょっとした体験の影響もあった。

 「TCIにいるとき、とあるアメリカ企業で、日本人ばかりの部署を見学したことがありました。その部署の雰囲気はあまりよくなかったのです。うまくいえませんが、それで日本企業に対して好印象を持てなくなってしまった気がします

 しかし、どんなに彼が熱意を持っていても、テロ後のマンハッタンで“外国人”が就職活動を続けるのは容易ではなかった。そのため、日本にいる両親にも就職活動に協力してもらい、企業の情報提供を電子メールで受けたりしていた。その中で、SVIの日本法人であるSVIJの求人情報を見つけた。

就職試験は結局、電話で済ませてしまったという。SVIJについて、「安心して決断することができた」と語る

■面接は国際電話で

 SVIは、アメリカや日本をはじめ世界各地に現地法人を持つが、主にフィリピンで開発を行うシステムインテグレータ(SIer)だ。SVIは各国の大企業の顧客を多く抱え、メインフレーム開発に始まり多様なシステム開発を請け負っている。フィリピンで開発を行うため、各国の法人はその国で営業を行ったり、その国の顧客企業からフィリピンの開発者たちに的確に要件を伝えるなどの調整を行う。最近ではこのような受注、開発スタイルを「オフショアアウトソーシング」と呼ぶようになっている。ここに就職すれば、国際的な舞台でITの仕事ができる、と信じた彼はSVIと交渉を始めた。

 まだマンハッタンに住んでいたため、フィリピンのSVIと日本のSVIJとの連絡は電子メールで行い、面接(インタビュー)も国際電話で済ませ、実際にSVI、SVIJのオフィスに足を運ぶことなく採用が決まった。Webに掲載されている会社情報と電話面接以外にも、彼には別の情報収集ルートがあった。「SVIJは身内の仕事と縁のある企業だったため、あらかじめよい評判は聞いていました。だから安心して決断することができたのです

 フィリピン企業だから、というこだわりは特になかった。それよりも日本以外の場で働けることが、彼にとって最大の魅力に映った。「SVIJに就職すればフィリピンと関係各国との往復になると思っていました。国際的な場でキャリアを積むのは私の希望でした。フィリピンには特に良い印象も悪い印象も持っていませんでした

 彼がアメリカから日本に帰国したのは2002年の正月。そして1月末にはさっそく新天地であるフィリピンへと旅立った。SVIJの規定により、最初の1年目はフィリピンのSVIで研修とOJT(On the Job Training)をこなすことになっているためだ。

■新人研修でコンピュータ知識を復習

 「フィリピンのよさの1つにホスピタリティがあると思います」と中島氏はいう。

 到着当日、自分が住むことになっていた部屋に電気がまだ通っていなかった。そこで呆然としていたところ、現地の社員が自宅に招待してくれたのだ。中島氏は「来客には親切にもてなす。そこがフィリピンのよさの1つです」と明るく語ってくれた。

 現地に着いて、まず最初の3カ月はフィリピンのSVIの新人社員と一緒に新人研修を受けた。そこではフィリピンのSVI社員が交代で先生役となり、コンピュータの基礎から指導してくれた。「フローチャートの書き方から始まり、その後にCやJ2EEなどを習いました。英語が中心の授業でしたが、生徒の大半がフィリピン人だったので、先生はたまにフィリピンのタガログ語を混ぜることもありました」という中島氏だが、基本的なことはすでに学校で学習していたこともあり、それほど苦にならなかったという。

 3カ月間の研修後、OJTを3カ月間行った。OJTで行ったのは、自社のシステム開発。そのOJTについて中島氏は、「フィリピンのSVIは採用に非常に厳しい会社です。私は日本法人での採用でしたので別でしたが、フィリピンのSVI社員は、OJTの後に本採用かどうかが評価されます。つまり、研修とOJTの6カ月間の成績いかんによって、不採用になることもあります。また採用枠は固定ではないので、絶対的な基準を満たさないと本採用にならないのです」と、研修とOJTの背景を教えてくれた。

■ブリッジSEとして現場を切り盛り

 仮雇用期間が過ぎれば、開発現場で本格的に活躍することになる。もちろん、勤務地はフィリピンだ。彼はエンジニアとして開発にかかわるが、彼はフィリピン人社員と違い、“ブリッジSE”という特殊な任務が課せられる。ブリッジSEとは、日本とフィリピンの間を取り持つ橋渡し役だ。日本の顧客の要望を正しく理解し、それを開発現場のフィリピン人エンジニアが正しく理解できるように手助けする。

中島氏は、日本とフィリピンの間を取り持つ橋渡しであるブリッジSEとなり、日本の顧客の要望をきちんとフィリピンのエンジニアに伝え、プロジェクト全体を見渡している

 「フィリピンのエンジニアたちは英語が理解できる優秀な人たちがそろっていますが、どうしても日本ゆえの事情や、微妙な表現を的確に伝えられる存在が必要です。常にプロジェクト全体を見渡し、進ちょくを調整したり、要件を開発者が正しく理解しているか確認すること、それが私の役割でした」と、中島氏はオフショア開発でのブリッジSEの役割をやさしく説明してくれた。

 彼によれば、フィリピン人は陽気で職場がにぎやかだそうだ。現地社員の平均年齢が23歳という若い職場、というのも影響しているのかもしれない。しかし、それ以上に国民性とでもいうものもあるようだ。中島氏は、「日本なら業務中に音楽を聴く人がいたとしても、周囲に音を漏らさないようにイヤホンをつけますよね。ところが、フィリピンだと堂々とスピーカーで音楽を鳴らしています。それが1人ではなく、そこら中にいるんです(笑)。しかし、それでも彼らは平然と仕事をしているのがすごいです」という。ずいぶんと陽気な職場のようだが、協力的な職場でもある。困難に直面したら、現場のみんなで助け合って解決するそうだ。

 しかし、たまには嫌になることもある。日本人が1人しかいない環境で、どうやってストレスを発散するのかと尋ねると、彼なりの秘策があった。「何人か仲のよいフィリピン人の友人がいるので、彼らに愚痴をぶちまけることがあります。また、怒ったら日本語で怒鳴ることもあります。ほとんどの人には日本語が理解できませんから、いっても無害です。たまに分かるフィリピン人もいて、彼らは笑っていますけど(笑)」と、おどけてみせる。

 日本人ならではのきめ細かさ、そして若い開発者たちのよき兄貴分として、彼は現場を切り盛りした。その現状分析能力と行動力を、周囲は「新人とは思えない」と高い評価を与えている。しかし本人は、「いま必要だと思うことを実行に移しているだけです」という。

■将来の夢は国際的なプロジェクトマネージャ

 今後も彼は日本とフィリピンを行き来しながら、調整役や橋渡し役をすることになる。方向性としてはプロジェクトマネージャを目指すことになりそうだが、現時点での目標は、もっとスキルアップすることだそうだ。「やはり技術がないと、交渉でも説得力がありません。また、技術を知らないと開発者の困難も把握できなくなってしまいますから」と、自分の現状の課題を冷静に語ってくれた。

 大学卒業後に海外で語学とITを学び、日本企業に就職したものの、未知の異国でエンジニアとしてスタートを切った。これだけでも十分、唯一無二のキャリアである。そんな彼は、日本の基準や指標には見向きもしていない。自国の基準にとらわれない価値基準も異国でキャリアを積むときには重要な要素になるだろう。

 「私の給料はフィリピンで生活しているので、フィリピン人のエンジニアと同一です。日本にいる同年代の新人社員と比べると圧倒的に低いでしょうが、気にしていません。気にするのであれば、一般的な日本人との比較よりも、同僚との比較の方です。しかし、給料はともかく、福利厚生面が充実しているので、現地ではかなりぜい沢な暮らしをさせてもらっています」と語る彼を見ていると、勝手に作っていた“いまどきの若者像”が自分の中で崩れていく。

 彼の視野の広さは現場での活躍だけではなく、自分の会社に対する意気込みにも見てとれる。SVIJに開発を依頼し、彼の仕事ぶりをよく見ているテンアートニの青木氏は、「中島さんは新人とは思えないような『野心』を持っています。野心というと悪いイメージがありますが、良い意味で野心的という意味です。つまり、ときに大胆で意欲的です。入社1年目にして、自分に割り当てられた仕事だけではなく自社SVIJの規模拡張も視野に入っています。もちろん、目前の仕事も的確に処理しています。英語の『アンビシャス』が適切かもしれません」と語る。

 自社の将来も考えているという視野の広さも、フィリピンでの実務経験が影響したのだろう。なぜならSVIの若きエンジニアをまとめたり、SVIJとして顧客と接したりしてきたからだ。去年は新人で無我夢中で試行錯誤しながら奮闘し、多くのことを吸収してきた。まだまだ彼は目標を多く抱え、可能性の広い、若きエンジニアである。時に奇想天外な行動に出るかと思えば、冷静沈着に仕事をこなす。そんな不思議な魅力を持つ彼は、周囲からの大きな期待を背負っている。これからどういうキャリアを築いてゆくのだろうか。


Index
最前線で必要なスキルとキャリアを知る! 第10回
  英語を学び、海外でスタートしたエンジニアへの道(1/2)
英語を学び、海外でスタートしたエンジニアへの道(2/2)

「連載 最前線で必要なスキルとキャリアを知る!」
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