第46回 50歳になっても、エンジニアでいたい!
加山恵美
2008/1/25
転職が当たり前の時代になった。それでも、転職を決断するのは容易なことではない。スキルを上げるため、キャリアを磨くため、これまでと異なる職種にチャレンジしたり、給料アップを狙ったり――。多くのエンジニアが知りたいのは、転職で思ったとおり仕事ができた、給料が上がった、といったことではなく、転職に至る思考プロセスや決断の理由かもしれない。本連載では、主に@ITジョブエージェントを利用して転職したエンジニアに、転職の決断について尋ねた。 |
今回の転職者:栗原謙一氏(仮名・35歳) |
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少年時代から機械が好きで、情報系の学部を卒業後、システム開発会社に就職。激務ではあったが、技術的な刺激を得られる環境がやりがいにつながった。30代になり、上司から技術営業への道を勧められるが、エンジニアを続けるために新天地へと転職した。 |
今回登場の転職者、栗原謙一氏は、「50歳になってもエンジニアでいたい」と語る根っからの技術者だ。エンジニアの自主性を重んじる会社で経験を積み、激務をものともせずに着実にスキルを身に付けてきた。
そんな栗原氏に転機が訪れたのは、その会社の慣例として、技術営業になる道を強いられたときだった。エンジニアを続けたい、しかしこの会社ではそれが許されないのかもしれない。転職にこだわっていたわけではなかったが、エンジニアでい続けるためのさまざまな可能性を検討した結果、転職。いまでは再び、エンジニアとして歩み始めている。
栗原氏が転職を決断したのはいつのことだったのか。これまでの経歴を追ってみよう。
■就職先で厳しく鍛えられた日々
育った土地では親類が自動車整備工場を営み、飛行機が頭上を行き交っていた。自然と機械に興味を持つようになり、機械を見れば分解したり、組み立てたりしていたという。また、小学生時代からパソコンに親しみ、同じ趣味を持つ友人と過ごしていた。何人かでMSXを囲み、遊んでいたそうだ。「類は友を呼ぶのでしょうね」と栗原氏はいう。
そんな少年時代を過ごした栗原氏は、大学で情報系を専攻。就職活動でもIT業界をメインに就職先を探した。就職したのは、約30年と業界ではかなり長い歴史を持つシステム開発会社。「エンジニアはそれぞれ好きにやらせたらいい」とエンジニアの自主性を重んじる社風がある。それは同時に、エンジニアは早くから独り立ちを余儀なくされるということだ。
例えば、栗原氏の入社直後のアサイン。「学生時代に研究室でUNIXを扱っていた」ということだけで、「SolarisとOracleのインストール、よろしくね」とすべてを任されてしまったのだ。学生時代にUNIXを操作していたといっても、ユーザーとしてであり、インストールとなると話は別である。しかし会社は容赦なく試練を与えた。栗原氏は必死にマニュアルを読んで、どうにか乗り切ったという。
必要なスキルは、業務をこなしながら、常に自らの力で習得していった。「体系的に学んだことはないです」と栗原氏はいう。困難を乗り越えながら栗原氏は成長した。ほかのエンジニアも同様で、理系出身も文系出身も関係なく、仕事を与えられた。
厳しすぎるところもあったのかもしれない。「最初のプロジェクトではいきなりリーダーが入院し、その後、行方知れずになったくらいです」と、栗原氏は業務の厳しさを語る。過酷さに辞めていく同僚も少なくなかった。
栗原氏にとって、最も「体力的にきつかった」のは、検証を担当したプロジェクトだという。業務時間内にはできない作業だったため、午後4時に出勤し翌日の午前11時まで働いた。完全な昼夜逆転である。これが長く続いたときはさすがに、体調を保つのが困難だと感じた。
■珍しい経験がつらさを吹き飛ばす
厳しい業務が続いたが、栗原氏は音を上げることはなかった。体力や要領の良さもあったのかもしれない。加えて「新しもの好き」な性格が幸いし、業務で味わった珍しい体験が重荷を軽減したようだ。
エンジニアとして足を運んだ場所は多岐にわたる。お台場の客先へ通勤していたときは、行き帰りに珍しい建物を見ることができ、素直に楽しかったという。ショールームのように豪勢な機材がひしめくサーバルームや、警備が厳重な企業や省庁に足を踏み入れたときもわくわくした。エンジニアでなかったら、立ち入ることはできなかった場所だ。
こうした最先端の設備や珍しいものは仕事のモチベーションを高め、業務のつらさを吹き飛ばした。「退屈しなかったから続いたのです」と栗原氏は語る。
入社から約7年間で栗原氏はさまざまな業務を経験したが、メインはシステム導入に関係するものだった。特出した開発スキルというより、システム全体に幅広く注意を行き渡らせるゼネラリスト的な能力を磨いた。最終的にはシステム導入の管理者として多くの関係者に接した。
導入前には開発チームとともに作業する。機材をセットアップするプロにも出会った。「ラックを設置する手際の良さには感嘆しました。自分でもラックを組み立てたことがありますが、慣れていないとどこかがゆがんでしまうものです。しかしプロは最初緩くねじ止めしておいて、最後にうまく調整してしまいます。それをあっという間にやってしまうのはさすがです」。こういった作業に目が行くところは、少年時代から機械好きだった栗原氏らしい。
開発の周辺をサポートし、導入へ結び付ける仕事を多くこなしたせいか、次第に人員の管理も任されるようになってきた。さらに30代になると、上司から技術営業になることを勧められるようになった。
■「50歳になってもエンジニアでいたい」
技術営業になることは、栗原氏にとって好ましくないキャリアチェンジだった。しかしその会社にいる以上、避けて通れない道でもあった。エンジニアは業務経験やスキルにかかわらず、30代中盤までには技術営業へと進むのが慣例だったのだ。
「経験を積んだエンジニアはそのスキルと人脈を生かして、顧客から案件を獲得する仕事を」という考え方だ。例外は特殊な技能や職務を持つ数人のみ。どちらかというと、技術営業に進む方が「出世」という扱いだった。
そうはいうものの、栗原氏はエンジニアが性に合っていた。「50歳になってもエンジニアでいたい。それだけは譲れなかった」という。試しに、技術営業としてシステムの現場から離れ、経営層に近い顧客と懇意にする自分の姿を思い浮かべてみた。顧客からヒアリングをし、顧客が求めるようなシステムを売り込む。こうした想像には違和感があった。「やはり自分には不向きだ」と感じた。
そんな栗原氏に上司は進路変更を迫った。乗ったら降りることのできないレールの上を走らされるかのように思えた。システム開発で長い歴史があるせいか、社風にどこか「旧態依然」とした空気があったが、このキャリアパスに関しては特に強くそれを感じたという。
今回のインデックス |
エンジニアでい続けたい。しかし…… (1ページ) |
迷いが決意に変わったとき (2ページ) |
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