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IT業界の冒険者たち

第13回 HPのやり手女性社長

脇英世
2009/6/2

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

カーリー・フィオリーナ(Carleton S. Fiorina)――
ヒューレット・パッカード社長兼CEO

 カーリー・フィオリーナは1999年7月19日、ヒューレット・パッカード(以下HP)の社長兼最高経営責任者(CEO)に就任した。HPは1938年にウィリアム・ヒューレットとディビッド・パッカードによって創立された名門会社である。ガレージから始まったことで有名だ。ガレージ産業のはしりである。

 カーリー・フィオリーナは、『フォーチュン』誌で「最もパワフルな女性」と評された。やり手の女性経営者という意味である。HPに入社する前には、ルーセント・テクノロジーのグローバル・サービス・プロバイダ・ビジネスの社長を2年間務めていた。その間、ルーセント・テクノロジーを年間2兆円の売り上げが出せる大企業に変身させ、1996年のIPO(株式上場)を成功させた立役者となっている。その腕を買われて、HPの経営者に抜てきされた。ちなみに、カーリー・フィオリーナというのは愛称で、本名はカラ・カールトン・スニード・フィオリーナである。

 カーリー・フィオリーナは、1954年9月6日にテキサス州オースチンに生まれた。父親は連邦裁判事で、母親は抽象画を得意とする芸術家だったという。面白い組み合わせだ。

 カーリー・フィオリーナが自分で語るところによれば、4歳のとき「お父さん、お母さん。わたしは消防士になりたいわ」といったそうだ。消防士になりたかったのは、市民の義務を果たすためでなく、赤い色が好きで、斑点のある白や黒の犬が好きだったからだという。やがて、消防士という職業選択が、単に赤い色や犬が好きであるということ以上の問題であると気付くとともに、芸術家の母親ほど上手に色を塗れないと悟ったカーリー・フィオリーナは、連邦裁判事であった父親の職業を継いで法律を勉強しようとした。カーリー・フィオリーナは高校を5つも変わったという。度々引っ越しをしたのだろうか。いろいろあったようだ。

 スタンフォード大学に進んだカーリー・フィオリーナは中世史と哲学を専攻し、1976年に学士号を取得した。その後、ロースクールで法律の勉強をしている。法律家になって父親の職業を継いで、父親を喜ばせたいと考えたからだという。だが、法律の勉強は肌に合わなかった。そこで3カ月間悩んだ後、法律の勉強をやめた。悩んだ期間こそ3カ月であるが、結局は1カ月しかロースクールに行かなかったらしい。スタンフォード大学在学中には、HPの出荷部門で秘書として働いた経験がある。具体的には、HPが出荷する製品の伝票をタイプしていたという。1980年には、メリーランド大学で経営学修士号を取得した。この間、結婚と離婚を経験したらしい。また1978年、MITのスローン・スクールで科学修士号を取得している。

 テキサス州、カリフォルニア州、メリーランド州、マサチューセッツ州という移動距離もすごいが、経歴もずいぶん屈折している。いろいろ悩みもあっただろうし、自分の可能性を模索していたのかもしれない。

 1979年、25歳になったカーリー・フィオリーナは、AT&T(アメリカ電話電信会社)に経理担当として入社した。AT&Tは彼女に向いていたのだろう。たちまち頭角を現し、女性として初めて管理職になった。またたく間に彼女は出世して、後にルーセント・テクノロジーの中核となるネットワーク部門を牛耳るようになった。

 AT&Tからルーセント・テクノロジーが分離されると、カーリー・フィオリーナはルーセント・テクノロジーに付いていった。そして冒頭で述べたとおり、ルーセント・テクノロジーを年間2兆円の売り上げを記録する大企業へと変身させ、1996年のIPO(株式上場)も成功させた。その功績を買われて、ルーセント・テクノロジーのグローバル・サービス・プロバイダ・ビジネスの社長を2年間務めたのだった。結局、カーリー・フィオリーナはAT&Tとルーセント・テクノロジーに20年近く勤めたことになる。

 一方、HPは1938年にウィリアム・ヒューレットとディビッド・パッカードによって創立された。計測器を得意とし、オシロスコープを除くほぼすべての計測器において絶対の信頼を獲得し、伝説的なまでの地位を築いた。オシロスコープには、テクトロニクスという強敵がいたのである。

 HPは計測器から電卓、卓上計算機、ミニコン、ワークステーションと重点を移し、計測器部門とコンピュータ部門に拡大した。パソコンや周辺機器部門を加えてプリンタ部門が成立した。多様化したことは良いのだが、ブランドが乱立し、製品が増えすぎて、焦点があいまいになった。自立性があるのは良いのだが、分権主義がまん延したのである。やがて、HPの最大のライバルであるサン・マイクロシステムズのスコット・マクニーリーは「HPは優れたプリンタの会社だ」と挑発するまでになった。HPをよく知らない人は、案外プリンタ専業の会社だと思っているかもしれない。

 内部の矛盾は、現実問題となって現れてきた。1998年5月、HPは収益悪化に伴い、マネージャ2400人の賃金カットを行うとともに、クリスマスに1週間会社を閉鎖した。賃金カットと操業短縮は、企業にとって良い傾向とはいえない。1999年3月、HPは4万3000人いたテスト機器や計測器の部門をアジレント社として切り離した。会社としての出発は計測器であったから、これは随分思い切った措置である。この結果、HPは12万人体制から8万人体制へと軽量化された。

 加えて、HPの第4代最高経営責任者のルイス・プラットは、一区切りがついたとして1999年末までに辞職することを表明した。ルイス・プラットの後任として取り上げられた候補者は100人いた。選考には心理学テストが重視され、各候補者について、3時間の面接と900項目にわたるテストが課せられた。随分猛烈なものである。HP社内ではアン・リバモアという女性が本命候補と目された。しかし、カーリー・フィオリーナは、アン・リバモアを押しのけた。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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