第15回 ノーテル・ネットワークスの帝王
脇英世
2009/6/4
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ジョン・ロス(Jhon Roth) ――
ノーテル・ネットワークス元社長兼CEO
1949年、ポール・セベリノという1人の男が、ニューヨークに生まれた。1969年にレンセラー工科大学の電気工学科を卒業した後、就職し、20代のころはプライム・コンピュータやDECといったミニコンピュータ業界を渡り歩いたという。それにしても、計算のうえでは、20歳で大学を卒業したことになる。飛び級でもしたのだろうか。
1976年、ポール・セベリノは、データ・トランスレーションという会社の設立に参加することになる。ビデオやデータの蓄積、画像製品などを扱う会社で、設立後は同社の技術担当副社長を務めた。さらに、1981年、インターランという会社を設立した。インターランは、イーサネット用のネットワーク・インターフェイス・カードの販売を手掛ける会社だ。ここで、ポール・セベリノは最高経営責任者(CEO)兼取締役に就く。規模は小さな会社であったが、優れた経営者になるための修練を積むには、良い場であった。
このインターランという会社には、クレイグ・ベンソンが在籍していたことがある。クレイグ・ベンソンは1983年に同社を離れ、現在、コンピュータネットワーク業界では屈指の企業であるケーブルトロンを、ロバート・レバインと共同で設立した。
インターランそのものは、設立から4年後の1985年に、マイコム・システムズに買収されてしまった。翌1986年、ポール・セベリノもインターランを辞め、今度はウェルフリートという会社を設立した。ここでも自ら社長に納まり、経営の手腕を発揮した。後に、ポール・セベリノ自身もいっていることだが、インターランはウェルフリートとケーブルトロンという2つのネットワーク関連企業を生んだ、といえるだろう。
ちなみに、ウェルフリートというのは、マサチューセッツ州にある地名である。その土地では、たくさんのクジラが泳いでいるのを見ることができるらしい。素晴らしい海洋生態系が保護されている風光明媚な場所のようだ。
さて、ウェルフリートは、次第にルータの販売で力をつけていった。やがて、ルータ分野では、シスコに次ぐシェアを持つ会社に成長した。当時、ウェルフリートが作っていたルータの写真を見ると、特徴的なパーツの存在に気付くだろう。ほぼすべての製品が、フロッピーディスクドライブを備えているのだ。ここから、同社のルータが、特殊な目的のコンピュータであることが分かる。さらに、箱の内部には対称型マルチプロセッサ・アーキテクチャが採用されていた。たくさんのCPUをVMEバスに装着できたのに加えて、さまざまなリンクモジュールと組み合わせることもできた。
後にウェルフリートと手を結ぶことになるシンオプティクスは、アンディ・ルドウィックという男によって設立された。アンディ・ルドウィックはハーバード大学でMBAを取得した後、ゼロックスに15年間勤務した。ここでは、マーケティング、マーケット・プランニング、セールスなどの分野で活躍していた。
同じく、後にシンオプティクス設立に加わるロン・シュミットは、UCバークレー校の学部を卒業後、大学院に進学。修士課程、博士課程を修了し、1971年に博士号が授与された。その後、民間のシンクタンクやベル研究所、HP、ヒューズの研究所を渡り歩き、1981年には、ゼロックスのパロアルト研究所に入所した。そこで彼はロバート・メトカーフの発明したイーサネットに出合った。すぐにイーサネットに夢中になり、改良するためのアイデアもいくつか考えついた。
1985年、アンディ・ルドウィックがシンオプティクスを設立し、最高経営責任者兼社長に就任すると、ロン・シュミットは上級副社長として補佐することになった。同社は順調に業績を上げ、設立から3年後の1988年に株式を上場し、10BASE-Tインターフェイスのパイオニアとして活躍した。それまで企業用のネットワーク規格における本命は、イーサネットでなく、IBMの推進するトークンリングネットワークだと考えられていた。ところが、シンオプティクスは、トークンリングネットワークに対抗した10BASE-Tを強力に推進した。同社は、やがて10BASE-T用インテリジェント・ハブなどの製品によって勢力を拡大した。
一方、イーサネットの発明者ロバート・メトカーフの設立したネットワークの名門3Comは、あるジレンマに悩まされていた。もともと3Comはイーサネットを売るための会社であったのだが、会社が大きくなってくると、大企業が重視するトークンリングネットワークを無視できなくなってきていたのである。けれども、イーサネットを切り捨てるわけにはいかない。そこでイーサネットの発明者を擁する企業でありながら、トークンリングネットワークも販売してゆくという決断を下した。
また、ほぼ同じころ、3ComはIBMやマイクロソフトと組んで、LANマネージャを推進しようとしていた。ロバート・メトカーフがLANマネージャ戦争の指揮を執ったが、これはノベルの逆襲に遭い、壊滅的な打撃を受けてしまった。このことで責任を問われたロバート・メトカーフは、結局、3Comから追い出されてしまう。
代わって経営を任されたエリック・ベナムは、3Comをネットワーク会社として再建しようとした。最初はネットワーク・インターフェイス・カードを手掛けたが、次第にハブ関連製品にも手を伸ばしていった。
このとき、エリック・ベナムが目を付けたのが、アンディ・ルドウィック率いるシンオプティクスであった。エリック・ベナムがアンディ・ルドウィックを説得した結果、シンオプティクスがイーサネット用のハブをOEM供給することになった。ところが、トークンリングネットワーク用ハブのOEM供給については断った。シンオプティクスは10BASE-Tを推進しながら、心の底ではやはり、トークンリングネットワークが本命かもしれないと思ったのであろう。
このようにしてシンオプティクスと3Comの同盟が成立したが、一方ではシスコとケーブルトロンの同盟が成立し、これに独立勢力のウェルフリートがいた。次第にシスコが強大化していくと、シスコとケーブルトロンの同盟は分解し、シンオプティクスとウェルフリートの反シスコ同盟が生まれ、頭角を現してきた。
1994年7月、対シスコを目的に、ウェルフリートとシンオプティクスを対等合併させるべく、ベイ・ネットワークスという会社が設立された。もちろん、この名前は、サンフランシスコ湾にあるネットワーク会社という意味である。ウェルフリートはルータ分野を、シンオプティクスはハブ分野を、それぞれ得意としていた。従って、この両者が合併して互いの長所だけを伸ばせば、シスコにも対抗しうる会社が出来上がるはずだ、と考えたのだ。
確かに理屈ではそうなるのだが、米国の東海岸はマサチューセッツ州にあるウェルフリートと、西海岸のカリフォルニア州にあるシンオプティクスを合併させることは、並大抵のことではなかったようだ。
ベイ・ネットワークスでは、最高経営責任者兼社長にシンオプティクスのアンディ・ルドウィックが就き、ウェルフリートのポール・セベリノが会長となった。けれども、この合併計画はうまくいかなかったようで、結局、2つの会社が1つにまとまることはなかった。また、株主代表訴訟にも悩まされて、1996年10月、アンディ・ルドウィックは辞職することになった。その2週間後にポール・セベリノも辞職した。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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