第36回 ワークグループソフトの父
脇英世
2009/7/9
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
レイモンド・オジー(Raymond Ozzie)――
ロータス ノーツ開発者
1960年代初期、イリノイ大学ではドン・ビッツアー教授を中心として教育開発研究所CERL(Computer-Based Education Research Lab)が開設され、コンピュータベースの教育システムPLATOが開発されていた。PLATOはタイムシェアリングシステムで、1960年代を通じて小さなシステムにとどまっていたが、1970年代に入って変化が起きた。
まず1973年デイブ・ウーリーがPLATOのバグレポートシステムを書いた。このバグレポートはユーザーが書いたバグレポートのノートを集めたものである。このバグレポートシステムはノーツ(Notes)と呼ばれるようになった。これがロータス ノーツの先祖である。
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次に1973年PLATOのチャットシステムとして、ダグ・ブラウンが私的にトークマティック(Talkmatic)を書いた。このプログラムを公式に書き直したのがタームトーク(Term-Talk)である。
ノーツとタームトークによって、PLATOは教育システムから通信システムへと性格を変えた。さらに1974年、PLATOにキム・マストの書いた電子メールシステムであるパーソナルノーツ(PNotes)が加わる。またデイブ・ウーリーがニュースグループ・システムのグループノーツ(GNotes)を書いた。こうしてPLATOはメインフレーム環境でのグループウェアとしての性格を強めていった。
1975年PLATOをコントロール・データ・コーポレーション(CDC)が商品化した。現在PLATOの商標はTROという会社が持っているが、ほとんど使われていない。本家のPLATOはほぼ滅んだが、ロータス ノーツとして生き残っている。
イリノイ大学のPLATOシステムはプログラマを集めるのに寛容であった。プログラムの経験のない人や高校生まで集めたらしい。むろんイリノイ大学の学生も雇ったわけで、その中に3人の若者がいた。まずレン・カーウェルは1977年学部を卒業。PLATOオペレータだった。次にティム・ハルバーソンも1977年学部を卒業した。PLATO矯正計画に参加した。そして最後にレイモンド・オジーがいる。シカゴ生まれ。1979年イリノイ大学の学部を卒業した。PLATOのシステムプログラマとして活躍したらしい。一番年下である。
3人は全員PLATOに親しんでいたが、ロータス ノーツを中心としないPLATOの公式の歴史には彼らは登場しない。例えばロータス ノーツを中心とする歴史では、「レン・カーウェルと同室のキム・マストが電子メールシステムを書いた」とあるが、PLATOの公式の歴史では「キム・マストが電子メールシステムを書いた」という記述だけである。
ともかく3人はPLATOをきっかけに知り合い、ジャンクフードを食べ、ビデオゲームで遊び、PLATOのプログラミングに熱中した。イリノイ大学を出た後、レン・カーウェルとティム・ハルバーソンはDECに行った。
レン・カーウェルはDECでVMSとDECネットの開発に従事したが、一方でPLATOのパーソナルノーツをモデルにしてメールプログラムを書いた。これがDECのVMSメールになった。またPLATOのグループノーツをモデルにしてニュースプログラムを書いた。これがDECのノーツになり、VAXノーツのプロトタイプになった。1982年レン・カーウェルはデビッド・カトラーのチームに入り、最初はマイクロVAX、続いてVAX ELNの開発に従事した。
ティム・ハルバーソンはDECで1976年から始まったVAX/VMS開発とDECNetの開発に従事した。この間PLATOのタームトークをモデルにしてVAXトークを書いた。レイモンド・オジーはデータ・ジェネラルへ行き、その後ビジカルク(VisiCalc)を作っていたソフトウェア・アーツに入社した。レイモンド・オジーのデータ・ジェネラル時代の友人、ジョナサン・サックスがロータスにいてロータス1-2-3の開発に従事しており、レイモンド・オジーをロータスに誘ったが彼は断った。レイモンド・オジーは1982年から考えていたPC用ノーツの開発のために働きたかったのである。
ロータスの創立者ミッチ・ケイパーは、レイモンド・オジーと取引した。レイモンド・オジーがロータスで表計算ソフトの開発部門で働いたら、ロータスはノーツの開発を手助けしてやろうというのである。レイモンド・オジーはシンフォニーの主任プログラマとして働いた。シンフォニーが出荷された日に、ミッチ・ケイパーはレイモンド・オジーに事業計画を提出するようにいった。レイモンド・オジーはロータスとの交渉に6カ月をかけた。ロータスは1-2-3で羽振りが良く、レイモンド・オジーの事業計画を承認し出資することにした。
当初この事業計画はアイリスという開発コード名で呼ばれた。レイモンド・オジーが設立した会社もアイリス・アソーシエイツと呼ばれた。
1985年1月、レン・カーウェルとティム・ハルバーソンがレイモンド・オジーの設立したアイリス・アソーシエイツに入社した。またDECのVMS部隊からスティーブ・バックハルトが入社した。レイモンド・オジーは子どもっぽい顔、きれいにくしの入った髪、ジーンズ、シャツ、スニーカーに代表される典型的なハッカースタイルのスマートガイである。レイモンド・オジーはアイリス・アソーシエイツの環境をプログラマが開発に専念できるように心を砕いた。ロータスとは近すぎず遠すぎずの距離を置き、ハッカー文化創造に心を砕き、開発者の理想郷をつくろうとした。最初のアイリス・アソーシエイツの本社はマサチューセッツ州リットルトンの古い農家にあった。その後もアイリス・アソーシエイツの典型的な雰囲気は、社内に大画面テレビが置いてあり、その周りをぐるりとカウチが囲み、ビデオゲームマシンがあり、台所にはベンダマシンがあり、駐車場にはバスケットボールのフープがあるというようなものであった。また開発チームは、できる限り少数精鋭に抑えられた。
アイリスの開発は18カ月で完了するはずであったが、実際に出荷される1989年まで約5年かかった。さすがにロータスもいらだったようで、1988年マイクロソフトにアイリス・アソーシエイツを1200万ドルで売却しようとしたが、これは不成立に終わった。ビル・ゲイツはノーツを「基本的にまったく駄目なOS」としてマイクロソフト エクスチェンジの開発に踏み切った。後年、ビル・ゲイツはレイモンド・オジーを「全世界で上位5人に入るプログラマ」と称賛せざるを得なくなるのだから皮肉なものである。
ところがロータス ノーツはたまたま1980年代末のリストラブームに適合した。大企業はノーツによって事務の効率化、人員削減が達成できると考えた。ノーツは多くの人の注意を引き始めたのである。ロータスの姿勢は一変する。1988年ロータスはアイリス・アソーシエイツからアイリスつまりロータス ノーツの権利を買収する。1989年、ロータスはアイリス・アソーシエイツ本体を8400万ドルで買収する。
ロータス ノーツはコミュニケーション、コラボレーション、コーディネーションをスローガンに掲げ、この手の商品としては例がないほど売れ始めた。マイクロソフトがこれに対抗できる製品を持っていなかったこともロータスに幸いした。ただロータスがノーツ開発に投じた金額は全部で4億ドルといわれているが、ノーツの売り上げは年に2億ドルを超えたことがなく、1995年までに開発経費が回収できたかどうかは疑わしい。しかしノーツは、マイクロソフト打倒の秘密兵器としての可能性を秘めていた。
そこへ目を付けたのがIBM会長のルー・ガースナーである。企業買収が本業であった彼はロータスの敵対的買収をジョン・M・トンプソンに命じて電撃的に実行し、ロータスの反撃も問題とせず35億ドルの巨費をもって1995年7月、成功させてしまった。1995年10月、旧ロータスの最高経営責任者でIBMの副社長におさまっていたジム・マンジは突如、旧ロータスの6人の上級幹部を引き抜いてインダストリーネットを創立した。明確な反乱である。これに続いてレイモンド・オジーが反乱してしまうと、IBMによるロータス買収は意味がなくなってしまう。しかし、レイモンド・オジーは反乱を起こさず、IBM陣営にとどまった。ロータス ノーツの本当の敵はインターネットである。古いアーキテクチャの上に構築されたノーツは、いつでも陳腐化の危機にある。だからレイモンド・オジーにとっての急務は、ノーツのインターネット対応である。レイモンド・オジーの講演を読むと、ビル・ゲイツよりずっとインターネットを理解していると思われる。センスも良く核心をきちんとつかんでいる。問題はインターネットに近づくのがベストなら、そこにもっとインターネットに近いネットスケープがいるということである。この問題をどう解決していくかがレイモンド・オジーの今後の課題だろう。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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