第39回 Javaの女王
脇英世
2009/7/14
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
キム・ポーレーゼ(Kim Polese)――
元マリンバCEO
キム・ポーレーゼの名前を何と読むかは相当難しいらしく、彼女の略歴には発音を理解するための一種のふりがなが付いている。その彼女が、Javaの育ての親であり、またJavaの女王でもある。
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Javaについては分からないことが多く、その疑問については拙著『ビル・ゲイツのインターネット戦略』(講談社刊)にも書いた。かいつまんでいえば「Javaで気にかかるのは、歴史的には失敗ばかりであったことだ。負けるには負けるだけの理由があり、それが完全に解析され、克服されたのかどうかが気にかかる」ということである。
この問題とキム・ポーレーゼについて考えてみることにしよう。
キム・ポーレーゼはカリフォルニア大学バークレー校で生化学の学士を修め、ワシントン州シアトルのワシントン大学でコンピュータ科学を勉強した。インテリコープでエキスパートシステムのアプリケーション・フレームワークを扱っていた。その後、彼女はサン・マイクロシステムズに7年間勤めた。まずサン・マイクロシステムズのサンプロ(現在はデブプロと改名されている)でC++のプロダクトマネージャを務めた。1993年8月ファーストパーソン社にオーク(Oak)計画のプロジェクトマネージャとして出向した。
ファーストパーソンは、サン・マイクロシステムズのグリーンという暗号名のコンシューマエレクトロニクス製品の開発計画を担っていた。機密保持のために別会社として発足したとも、単なるスピンアウト会社だともいろいろいわれる。その手の会社だったのだろう。コンシューマエレクトロニクス製品が市場で広く支持されるためには、特定のハードウェアやアーキテクチャに依存しないことが重要であった。このためジェームズ・ゴスリングが特定のハードウェアやアーキテクチャに依存することの少ないC++言語を改良したオーク言語を開発した。このときグリーン計画はVOD(ビデオ・オン・デマンド)用のセットトップボックスに的を絞っていた。
プロジェクトマネージャとして着任したキム・ポーレーゼはグリーン計画を検討した結果、マーケティング的に見て市場が未成熟で見込みが薄いと判断する。キム・ポーレーゼはセットトップボックスに向けたオーク言語の開発をやめて、オーク言語をデスクトップコンピュータにポーティングし、オンラインバージョン用のオーク言語を作るように勧告する。この勧告はもともとコンシューマエレクトロニクス製品、とりわけセットトップボックスを作るために設立されたファーストパーソンの成り立ちそのものを否定することになり、しばらく混乱が続いた。
キム・ポーレーゼは人工知能やエキスパートシステムに従事したことがあり、それらのうさんくささを知っていた。そこでは基本的にマーケットもカスタマーベースもないのに、信じられないような多額の投資が行われていたのである。
キム・ポーレーゼの見るところインタラクティブTVやセットトップボックスは、人工知能やエキスパートシステムと同じようなうさんくささを持っていた。
1994年、マーク・アンドリーセンがシリコンバレーにやって来て、ジム・クラークとともにモザイク・コミュニケーションズを設立する。キム・ポーレーゼはインターネットこそオーク言語の活躍の舞台だと確信する。オーク言語は小型のプラットフォームの上で走り、またプラットフォーム依存性がなく、セキュリティがしっかりしており、複数のOSの上で走ることができ、ダイナミックなコードのダウンローディングが可能だったからである。
そこでキム・ポーレーゼは、オーク言語がインターネットという舞台の上で活躍できるような仕掛けを作り始める。まず製品の名前とロゴが重要である。オーク言語のダイナミックさを表すような名前が欲しい。また名前は覚えやすくなければならない。名前はオタクっぽいものであってはならない。そこでキム・ポーレーゼはJavaという名前を選択した。ロゴデザインに関してはジョー・パルラングが起用された。
キム・ポーレーゼはC++言語でのマーケティングの経験から、Javaのリアリティを示すようなキラーアプリケーションが必要だということを知っていた。新しい言語を普及させるには、その言語が現実にどう役に立つかを実例となるキラーアプリケーションで実証してやる必要がある。そこでキム・ポーレーゼは、Javaで書かれたJavaブラウザであるホットJava開発チームを作った。これにはデュークやチック・タック・ツーなどたくさんの例題が付いていた。ホットJavaこそが明確にJavaのキラーアプリケーションであった。
1994年2月、キム・ポーレーゼはパトリック・ノートンとともにJavaをすべてのデスクトッププラットフォームに広げるビジネスプランを書く。これに対する反響はいろいろであったが、サン・マイクロシステムズの首脳陣のスコット・マクニーリー、エリック・シュミット、ビル・ジョイは特に賛成も反対もせず判断を保留し、キム・ポーレーゼのなすがままに任せた。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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