第52回 コンパックの新しい指導者
脇英世
2009/8/6
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
マイケル・カペラス(Michael D. Capellas)――
コンパックコンピュータ社長兼会長兼CEO
2000年11月1日、帝国ホテルでコンパックコンピュータ(以下コンパック)のパーティーがあり、会長兼最高経営責任者(CEO)のマイケル・カペラスが出席した。去る9月25日、同ホテルで開かれたデルコンピュータのパーティーでは、マイケル・デルが欠席している。わざわざ行ったのに無駄足を踏まされたと怒る業界関係者が多かった。マイケル・デルは、極東最大の市場を軽視して愚かだと思ったものだ。さて、マイケル・カペラスはどうしたかというと、ちゃんと出席して愛きょうを振りまいていた。勝っているところはごう慢だし、そうでないところは真剣だなと思った。仕方のないことかもしれない。
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コンパックの代表的人物といえば、ベン・ローゼンである。ユダヤ人のベンチャーキャピタリストで、非常に多くのコンピュータ会社やソフトウェア会社に投資している。ベン・ローゼンはコンパックに投資する前、アダム・オズボーンのオズボーン・コンピュータに10万ドルを投資した。1981年のことだった。さらに翌年30万ドルを投資したが、1983年の同社の倒産によってすべてを失った。
ベン・ローゼンはロッド・キャニオン率いるコンパックに投資して、復しゅう戦に臨んだ。コンパックに150万ドルを投資するだけでなく、会長としてコンパックの取締役会にも入っている。コンパックはIBMの互換機を作りつつも、IBMのパソコンより性能と品質の優れた製品を作り出した。極め付きは1986年のデスクプロ386で、IBMよりも先にインテル386のプロセッサを採用したマシンだった。
表向きでコンパックを指揮していたのはロッド・キャニオンであったが、誰がコンパックの本当の帝王であるかを知らしめたのは、1991年に起きたロッド・キャニオンの解雇事件であった。当時、コンパックのパソコンは性能と品質において優れていたが、次第に一般的なユーザーの手に届かない価格になっていた。そこで、ベン・ローゼンは極めて無造作にロッド・キャニオンの首を切って、マーケット畑にいたエッカード・ファイファーを後任の社長とした。エッカード・ファイファーは低価格路線を推進して、コンパックの軌道修正に成功する。
だが、ベン・ローゼンが冷たいばかりの男かというとそうでもない。わたしは、日本のコンパックを立ち上げる際、広告宣伝のお手伝いを少ししたり、ウィンドウズ・ワールドの顧問団議長を数年務めたこともあり、ベン・ローゼンには何度か会ったことがある。
エッカード・ファイファーは尊大な男で、しかもスピーチがものすごく下手なため、聴衆をあっさりと集団催眠にかけて眠らせてしまう。そのくせビル・ゲイツより先にスピーチさせろと強硬に主張するのだから、あきれたものだ。これに対して、ベン・ローゼンはいともにこやかに、まるで旧友に接するかのようにあいさつしてきた。一見、優しいおじいさんといった印象だ。いかにも老練で、したたかである。おまけにスピーチもうまかった。話し方のツボを心得ていて、視線をあらゆる方向に振り向け、聴衆へのサービスも心得ていた。まるで千両役者だな、と感心させられたものである。
とはいえ、やはり、ベン・ローゼンは優しいだけの人でもなく、コンパックの真の帝王であった。1999年、ロッド・キャニオンに続いて抵抗するエッカード・ファイファーの首もあっさりと切ったからだ。すごいものだと思った。
そして、極めて意外なことに、エッカード・ファイファーの後任としてベン・ローゼンによって選ばれた人物が、当時まったく無名のマイケル・カペラスであった。
マイケル・カペラスは、1955年8月19日にオハイオ州ウォーレンに生まれた。父親はイタリアでドイツ軍と戦ったギリシャ人だという。どうしてイタリアにギリシャ人がいたのかよく分からないが、ともかくマイケル・カペラスの父親はイタリアでジュリエットという女性と出会って結婚した。
2人は米国のオハイオ州ウォーレンに移住した。オハイオ州ウォーレンは、五大湖の1つとして知られるエリー湖の湖岸にあるクリーブランドの南東に位置する。道路がたくさん集まっている交通の要所である。実際に行ったことはないが、殺風景な町らしい。
マイケル・カペラスの父親は、オハイオ州にあるリパブリック・スティール社に勤めていた。同社は、1886年にオハイオ州のカントンに設立された製鉄会社である。1984年、同社はジョーンズ・ラフリンと合併して社名をLTVスティールに変更した。1986年にLTVスティールの1部門がリストラで分離され、1989年には再びリパブリック・エンジニアリング・スチールとなっている。このリパブリック・スティール社で、マイケル・カペラスの父親は非熟練工から部長にまで昇進したという。
一方、マイケル・カペラスの母親は学校の先生として働いたが、58歳のときにルー・ゲーリック病と呼ばれる難病で亡くなった。
マイケル・カペラスはウォーレンで育ち、中学、高校とウォーレンの学校に通ったが、負けん気の強い子どもであったらしい。目が多少不自由であったようだ。フットボールが好きで、1971年には負けん気と努力の甲斐あって、オハイオ州のオールスター選手に選ばれている。学業はそれほどできたようには思えない。
1976年にはケント州立大学経営学科を卒業した。卒業後、看護婦をしていたマリーという女性とパーティーで知り合った。後に、彼女がマイケル・カペラスの奥さんになる。そして、同年にマイケル・カペラスは父親が勤めていたリパブリック・スティールに入社して、1981年まで働いた。システムアナリストとして働き、製造部門にも携わったという。経営学科の出身でシステムアナリストになれるものだろうかと、ふと疑問に思う。
リパブリック・スティールを去った後は、1981年から1996年まで、シュルンベルジェに勤務した。ここでマイケル・カペラスは15年間過ごし、多くの仕事を経験している。以下に主なものを挙げてみよう。
- 情報システムのコーポレートディレクター
- アジア太平洋地域担当
- シュルンベルジェとダウ・ケミカルの合弁会社における最高財務責任者
- シュルンベルジェとフェアチャイルドの合弁会社における運用管理
マイケル・カペラスは、1989年からテキサス州ヒューストンに住んでいる。これがコンパックと結び付く一因になったのかもしれない。
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