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IT業界の開拓者たち

第5回 5つの学位を持つ天才

脇英世
2009/2/6

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ネイサン・ミアボルド(Nathan Myhrvold)――
マイクロソフト チーフテクノロジーオフィサー

 もしビル・ゲイツに何か事があれば、ネイサン・ミアボルドがビル・ゲイツの跡を継ぐだろうという記事が出たことがある。この意見には賛成できない。マイクロソフトの事業の正当な継承者はスティーブ・バルマーである(*1)。しかし、そういう観測が出るほど最近ネイサン・ミアボルドの地位が向上していることも事実である。

*1)1998年7月21日、スティーブ・バルマーがマイクロソフトの社長に昇格した。ほとんどの人がスティーブ・バルマーにレポートするようになったが、ネイサン・ミアボルドだけはビル・ゲイツに直接レポートすることになっている。それだけ、ビル・ゲイツの信頼は厚いのである。

 ネイサン・ミアボルドは1959年生まれ。カリフォルニア州サンタモニカで生まれ育った。いくらか複雑な家庭的事情があったようだ。

 若く見えるのを嫌って、やたらにひげを伸ばしている。マイクロソフトの重役の条件は若くして老けて見えることというのがある。ひげがないと子どものような顔をしていて、顧客がまともに扱ってくれないからだ。マイクロソフト株式会社の古川享会長に案内されて、シアトルのマイクロソフト本社でひげがいまほど立派でないときのネイサン・ミアボルドに会ったことがあるが、背も高くなく肥満体で猫背でちょこちょこっと走るように歩く。貫禄のないことおびただしい。ひげでもなければ「何? こんな子どもを出してきて……。副社長なんて肩書きうそだろう」と思うのが当然だ。申し訳ないが実際そう思った。誰でもそう考えるらしく、ひげは多分そのために年々濃く立派になる。貫禄を示しているのだ。

 ネイサン・ミアボルドは生まれながらにして天才で神童であり14歳で高校を卒業した。中学でないことに注意されたい。さらにネイサン・ミアボルドは19歳でUCLAの数学科学士、地球物理学修士、宇宙物理学修士と3つの学位を取得している。恐るべきものだ。そして23歳にしてプリンストン大学の数理経済学修士、理論物理学Ph.Dの2つの学位を取得した。結局ネイサン・ミアボルドは5つの学位を持っているわけである。これが多分、高い知能指数と高学歴のスマートガイを欲しがるビル・ゲイツが彼を気に入っている理由であろう。

 ネイサン・ミアボルドのプリンストンでの博士論文は「曲率を持つ時空量子場理論の展望」というものだ。Ph.Dを取った後、ネイサン・ミアボルドは英国に渡りケンブリッジ大学のスティーブ・ホーキンスの弟子となる。

 翌年一時米国に帰国し、プリンストンの理論物理学者と数学者5人から成るプログラミングのプロジェクトに参加した。かなりドラスティックな転身で、ネイサン・ミアボルドは急きょドナルド・クヌースの本を読んでプログラムの勉強をしたという(*2)。

*2)『インサイド・インテル』(ティム・ジャクソン著、渡邊了介・弓削徹訳、翔泳社)に面白いことが書いてある。「インテル側の出席者をとくに苛立たせたのは、頼みもしないのにミアボルドがいつもプログラミングの実践、マイクロプロセッサの設計、ビジネスの組織などについてまで助言しようと口を挟むことだった。自分自身は生涯で一行のコードも書いたことがないと、臆面もなく言い放っていたにもかかわらずである」

 このプロジェクトは単なるアルバイトなどというものではなく、ダイナミカル・システムズ・リサーチという会社が設立され、しかも会社設立登記がバークレーで行われており、ネイサン・ミアボルドは知らない間に社長にされていたという。ネイサン・ミアボルドの弟キャメロン・ミアボルドや、名プログラマとして有名なデイビッド・ワイズなどが参加している。

 当時1986年、マイクロソフトはIBMとOS/2の開発をしていたが、GUIに関してIBMのトップビューとマイクロソフトのウィンドウズが対立していた。IBMがマイクロソフトのウィンドウズに要求していたのはトップビューとの互換性であった。そんなものがあるわけはなく、マイクロソフトは途方に暮れた。たまたまマイクロソフトのスティーブ・バルマーが、ダイナミカル・システムズ・リサーチのモンドリアンという製品にトップビューとの互換性があるということを小耳に挟んだ。そこでマイクロソフトは、ダイナミカル・システムズ・リサーチを会社ごと150万ドル相当のマイクロソフトの株式で買ってしまった。こうしてネイサン・ミアボルド率いるダイナミカル・システムズ・リサーチはマイクロソフトの傘下に入る。マイクロソフトのメンバーとなったネイサン・ミアボルドは、モンドリアンの実演をIBMボカラトンで行い、IBMのトップビューを葬り去ってしまう。

 一方の会社は素人が作った製品に助けを求め、一方の会社は素人の作った製品に屈服してしまったのだから呆れたものである。思い出してみると、なるほどとうなずけることがいくつもある。当時のマイクロソフトの技量はないに等しく、IBMの官僚主義による退廃も極限に達していたのである。

 マイクロソフトに入ってからのネイサン・ミアボルドはウィンドウズ2.0の開発マネージャを皮切りにスティーブ・バルマーの下で4年過ごした。とはいうものの、おとなしくしていたわけではない。常に仕掛けを繰り出していた。

 1988年、ネイサン・ミアボルドはカーネギー・メロン大学からUNIXカーネルのマーク(Mach)をライセンスしてくる。その前にもサン・マイクロシステムズとGUIの共通化で暗躍した。

 また1988年、ネイサン・ミアボルドはRISC用OS/2としてウィンドウズNTの計画を立てた。当初ネイサン・ミアボルドの選んだRISC CPUはインテルi860であった。「マイクロソフトの次世代CPUはインテルi860である」としてネイサン・ミアボルドがインテルにかけ続けた圧力は相当のものであったらしい。混乱したインテルはi486とi860のどちらにすべきか決定できず、ついに両方同時に出荷するという無策に頼らざるを得なくなる(*3)。

*3)このことについては、アンドリュー・グローブが自著『Only The Paranoid Survive』の中で告白している。

 ついでにいえば、ウィンドウズNTのターゲットCPUはデイビッド・カトラーがi860に反対したことで、R4000になる。もっともこれはビル・ゲイツの常識的な反対に遭い、インテルi x86になる。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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