第24回 HOWS 庄司渉の“軽い結び付き”
荒井亜子(@IT自分戦略研究所)
岩井玲文(撮影)
2009/7/21
庄司渉 (しょうじ わたる) HOWS 代表取締役社長 兼 CTO 1950年4月27日生まれ、東京都出身。 1975〜1980年、数学教師として東亜学園高等学校に勤務。1976年、東芝が発売したマイコンキット「TLCS12」(当時の価格10万円ほど)を10カ月の月賦で購入。マシン語でプログラムを組む。生徒の成績処理をコンピュータで自動計算したことをきっかけに、「マイコン先生」と呼ばれメディアから脚光を浴びる。教師を務める傍ら、雑誌や書籍で執筆活動を行う。1982年インフォメーションサイエンス副編集長に就任。1987年株式会社トライテック設立。1995年ソフマップエフデザイン株式会社設立。2005年株式会社HOWS設立、現在に至る。 |
■失敗がノウハウとなっていまがある
3回くらい社長をやっているけれど、とにかく失敗の連続で、そのたびにリーダーとしての形を変えてきている。
父は労働組合員で、経営者に対しては加虐的。労働者、つまり弱い者の味方という人だった。父は80いくつで死んだが、戦後の労働問題から一貫して労働者の立場を取ってきた。そんな父に育てられたためか、僕も経営者というより労働者側の視点を持って、1社目を起業した。1社目の事業は、インターネットの前身であるパソコン通信ネットワークに関するものだった。アスキーや本田技研工業と組んで、オートバイの鈴鹿8時間耐久ロードレースの実況中継をチャットでしたことがある。僕が37歳のころだから20年くらい前だろうか。当時、先進的な取り組みとして新聞に取り上げられたことを覚えている。
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だが結局その会社からは追い出されてしまった!(社長なのに)。原因は僕のリーダーとしての理念にあったと思う。労働組合員の父の影響から“社員と社長は公平じゃないといけない”、そう確信して、トイレ掃除もお弁当を買いに行くのも、ジャンケンかくじ引きで決めていたのだ。そういうことをすると、社員は勘違いをする。次第に自分の責任を人になすり付ける風潮が強くなり、仕事が納期に間に合わないと「案件を取ってきた営業が悪い」という人さえ出る始末。経営が逼迫し、借金地獄に陥ってまで給料を払おうとしているときでさえ、社員は給料をもらうのが当たり前のように思っていた。それがすごくショックだった。
次に社長をやるときは、「絶対に暴君になる、社員が甘えるから公平は駄目だ」と心に決めた。社員と社長は決定的に違う。倒産や赤字で最後に責任を取るのは社長。だからトイレ掃除はしないし、毎日遊んでやる。そう思って、2社目のドリームテクノロジーズ(前ソフマップエフデザイン)では暴君を貫き通した。
結果、とてもうまくいった。その会社では、「MADO」や「QUOVIS-AUTHOR」(現在の「Zii」)といった地図ソフトを作った。1997年にはソフトウェアプロダクトオブザイヤーを受賞し、ゼンリンの出資で上場を果たす。上場するまでは副社長で、上場してから役員になった。僕はドイツにいて、超高級コールガールを秘書に携え、スーパーモデルと同棲する日々をおくった。きっと、当時日本人で誰よりも遊んだ社長だったに違いない(いまとなって反省はしているんだけど……)。その意味で、あるところを突破するには突っ走り系の暴君タイプのリーダーというのはありだと思う。
■男の嫉妬ほど怖いものはない
ところが、2003年、この会社も追い出されてしまう。信じられないかもしれないが、自分が育てた部下が僕のクビを切った。暴君とはそういう宿命。織田信長と明智光秀の関係がまさにそうだろう。尊敬と憎しみは紙一重なのだ。信長は光秀を信頼している、光秀は信長を尊敬しつつも――。上司というのは、「命を捧げる思いで必死にやる、何でもやる」姿勢を見せる部下に対し、どんどんきつくしてしまう。きつくされる方は、「なぜ自分ばかり」と思うのかもしれないが、それは信頼しているから。でもやられる立場からすると「いつか殺してやろう」と思うのだろう。
■この人にはかなわない
ドイツから帰国後、あまりにもお金がなく実家に転がり込んだ。母は「80歳になって50歳の息子の面倒を見るとは思わなかった」とボロボロ泣き、「あー惨めだ、あーみっともない」と嘆いた。すると父が「オレは、ハイライトと歴史読本と週刊新潮があればいいから、あとの金は全部渉にやってくれ」と母にいった。そのとき初めて「この人には負けた」と思った。好き放題遊びほうけ、社員に恨まれるようなことをして帰ってきた息子に、労働組合で働きながらコツコツと貯めてきたお金を全部やってしまうのだから。まじめに生きてきて、自分の家もあって、放蕩息子が帰ってきても受け入れる体制がある、この人にはかなわないと思った。
■どん底は、そう思ってからが長い
2社目をクビになってから約2年間、悶々と考え、ぶらぶらしていた。あまりにもお金がなくて職安に通っていたし、もうコンピュータ事業も経営者も2度とやりたくないと思った。
そのときたまたま浅田次郎の『天国までの百マイル』を読んで、人生のいいところからガクンと落ちた主人公 城所安男と自分を重ねてしまう。彼を支える水商売の女 マリとのやりとりで、「マリに養われた男で、可能性のある人間は皆2〜3年でマリの元から去っていく」といった件(くだり)を読んで、「自分も3年たったら、また会社つくれるかなぁ」などと漠然と思った。
人生においてもコンピュータの世界においても、失敗がノウハウで、どれだけたくさん失敗したかが1つの情報となる。プログラムを作っていても、失敗そのものがノウハウだと思う。「こういうコードを書いたからミスをした」とか、人から教わっても失敗しなければ分からないことがたくさんある。駆け出しのアイドルが自分の映像を何回も見て奇麗になっていくように、われわれITエンジニアも自分へのフィードバックが多ければ多いほどスキルは磨かれていく。
■HOWSの戦略「技術の庄司、経営の川上」
2005年、元アクシスソフトの創業者 大塚裕章氏とともに、僕にとっては3つ目の会社、HOWSを設立する。
どのリーダータイプがいいかは、会社の規模や目標によって異なる。僕は前2社の反省を生かし、このHOWSではなるべく技術に専念することにしている。本田宗一郎と藤沢武夫ならば本田宗一郎に徹したい。いまは川上孝子という副社長がいるから経営戦略については彼女に任せている。
HOWSは当初、Ajaxによるコンポーネント開発やシステム導入を主な事業としていたが、現在の主力事業はサーバ・インフラ寄りである。Web上の膨大なデータの中からユーザーにとって真に必要な情報を素早く検索・抽出する「ISSEI」(イッセイ)という情報基盤技術を提供している。ISSEIという名称は息子の名前から取った。ISSEIは、僕が生涯のうちに仕上げたい仕事、いわばライフワークだ。
■3社目のいま――社員とは“軽い結び付き”でうまくいっている
HOWSでの役割は、R&D(研究開発)とプロトタイプの作成。これからコンピュータの世界がどうなっていくかを見極め、必要とされる技術を発案して作る。研究は主に3人体制で行っている。
この3人とは“軽い結び付き”でうまくやっている。尊敬という絆はあるが、権力関係では強くない、それを僕は軽い結び付きと呼んでいる。経験上、人との“結び付き”は、金やモノ、時間では縛れない。コールガールに、いくら好きになってくれといっても、何百万円貢いで、どんなに尽くしたところで寂しいだけ。本当の愛情は得られない。
人を動かすのは権力でも組織力でも腕力でも何でもない。その人の魅力でしかない。たくさんの情報や愛情を持っていて、その見返りとして尊敬が付いてくる。情報と尊敬、それが人の絆の基本だと思う。
もう1つ、尊敬を得るには、前提に“相手を立てる”姿勢が不可欠。相手をライバルとして蹴落とすのではなく、いいところを認めて利用させてもらう。僕が思うに、多くのプログラマはそれが苦手。優秀な人ほどその傾向がある。例えば、人の作ったソフトを嫌がる癖。自分で作れるから人のソフトを認めない、ケチをつけるなど。ITエンジニアは、コンピュータで数億円のシステムを作る。自分の指1本で世界をひっくり返すことだってできる。システム設計者やプロジェクトマネージャは、ある意味、そのシステムでは絶対的な権力者。強すぎる自負で失うものがあることに気付いてほしい。
恋愛をたくさんして、異性にたくさん振られ、自分の惨めさや力のなさを思い知った人ほどいい。人がしてほしいことや人の気持ちが分かるというのは、プログラマとしてもリーダーとしても大切な要素。強い主張をする前に、自分に非がなかったかを考えるのは、なかなかできないことだけれど、それをできるかできないかで人として差がつくと思う。
HOWSでは、社員に映画や漫画、小説を勧めている。ビジネス書やHow to本ばかり読んでいては駄目。感情移入できたり、主人公になり切れる作品に触れないと。日ごろから人の目線でモノを見る訓練をしよう。
■いいITエンジニアの条件=昨日の自分を捨てる勇気がある
ある部分で、いいプログラマの条件はいいリーダーの条件でもある。プログラマは、何にもこだわらない、何にも固執しない、本当の自由であるべきだと思う。組織にも権力にも固執しないことから自由な発想が生まれる。逆にいえば、自由な発想を生むには、自分がいつも自由でなければならない。立場やものをいつでも捨てられる覚悟が必要だ。
時には自分が作ったものすら捨ててしまえる力が要る。昨日まで自分が最先端だと思っていたものが、ある日別のものに塗り替えられることは往々にしてある。そのときは、迷わず自分のものは捨てないといけない。
ベートーべンもシェーンベルク(現代音楽の12音技法を作った人)も、自分で作ったものを壊してきた。本当の自由は、自分へのこだわりを捨てることから生まれる。これはいいプログラマの条件だが、リーダーにおいてもいえる。“自分が自分が”という人には誰も付いてこない。幸い、いまの部下は僕が60歳になるまではいうことを聞くといってくれている。集中力や体力は部下の方があるが、総合力と判断力は経験量でまだ僕の方があるらしい。
■リーダー引退後はベートーべンの研究を
僕は59歳の管理職だが朝の5時までC#でプログラミングしてしまうほど技術が大好きだ。だが、リーダーを引退したら、これまで続けてきたベートーべンの研究に集中する予定だ。ベートーべンは耳が聞こえなかった分、多くの指示を楽譜に書き込んだという事実がある。65歳までに、ベートーべンのピアノソナタをすべて楽譜どおりコンピュータで忠実に再現したい。
僕はベートーべンを歴史上最も偉大な障害者だととらえている。実は僕の息子は、生後5カ月で発病し、重度の障害を負っている障害者だ。自分の息子と同じように障害を持っていたベートーべンが、「人生は素晴らしい」(*1)といっているんだから頭が下がるじゃないか。
(*1)交響曲第九番(第九)、合唱パートで有名な第4楽章の「歓喜の歌」より。この章は、「友人や愛する人のいる人生の素晴らしさ」を表している
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