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リーダー

第1回 「Webブラウザの母」が語るMozillaの軌跡(前編)


荒井亜子(@IT自分戦略研究所)
大星直輝(撮影)
2009/12/21

瀧田佐登子(たきた さとこ)氏 Mozilla Japan 代表理事 1963年生まれ、鳥取県出身。1986年3月、明星大学理工学部化学科卒業。同年4月、日電東芝情報システム(現・NECトータルインテグレーションサービス)にSEとして就職。1991年、東芝システム開発にて、インターネット事業の立ち上げおよび企画推進に従事。1996年、Netscape Communicationsの日本法人に入社。2001年、米国AOL/Netscape プロダクトマネージャとして日本の金融関連サービスおよび Netscape 7のプロモーション業務を担当。2004年Netscapeの技術を継承したFirefoxやThunderbirdの製品や関連技術の普及、オープンソースの啓蒙を目的とした非営利法人Mozilla Japanを設立。2006年7月Mozilla Japan 代表理事に就任。業界では「Webブラウザの母」と呼ばれる。

 ようやくここ1〜2年です。“Mozilla Japan”といったら「“モジュラージャパン”ですか?」とか「“モチダジャパン”ですか?」といわれなくなったのは。おかげさまでMozilla Firefox(以下、Firefox)は世界で4人に1人が利用するまでになりました。ただ、シェアの拡大がわたしたちの目標ではなく、その数字は1つの指針に過ぎません。この業界で影響力を保てる程度、多くても3割あればいいと考えています。それよりも製品のコンセプトである「速い、安全、モジュールが小さい」を守りつつ、オープンソースの発展に貢献していきたいというのがMozilla Japanの考えです。

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 1993年にNCSA Mosaicと出合ってから今日に至るまでの16年間、インターネットWebブラウザの開発・普及に携わってきました。Webブラウザはわたしにとって、いわば子どものような存在です。

■Mozilla Japanのいまと、ネットスケープからMozilla設立までの経緯

 1991年から1996年まで、わたしは東芝の商品技術部でUNIXに関する製品の技術・営業支援をしていました。セールスエンジニアにプロダクトの技術知識を提供する、バックエンドのエンジニアです。また、同部署は、新しい技術を取り入れ事業を推進する企画部門でもありました。1993年ごろにインターネットが商用化されると、1994年の終わりから1995年にかけて、日本のメーカー各社はインターネット事業に積極的に取り組みはじめました。Mosaicという言葉はあっても、「Webブラウザ」という言葉がなかったあのころ、インターネットがどうなっていくのか、将来の姿は誰も描けていませんでした。あるとき、海外のソフトウェアを調査する調査部隊の一員として米国に飛ぶ機会がありました。わたしにとって海外のITに触れるのは初めての経験。この時代、女性を海外に送り出すのは前代未聞の出来事でした。この米国IT企業視察では、さまざまなベンチャー企業を見て周りました。Netscapeとの出合いもこのときです。当時はまだMosaic Communicationsという社名でした。1994年にWebブラウザとして「Netscape Navigator」を販売し、日本でも90%のシェアを獲得するという同社の全盛期でした。

 1996年、Netscape Communicationsの日本支社、ネットスケープ・コミュニケーションズに開発者として入社しました。きっかけはNetscape Communicationsからのヘッドハントです。ここでは、米国と日本を行き来しながら、Netscape Navigatorの国際化と日本語化を行いました。このときのことは忘れもしません。ビザの都合で、米国に3カ月滞在し、日本に一時帰国するという生活を1年くらい続けました。その間、結婚し出産もしたのだから、周りからは奇跡といわれます。

 着実に日本語化を進め日本でのシェアを保ってきましたが、マイクロソフトがWindowsとセットでInternet Explorer(IE)を提供し始めると状況は一変しました。急速にシェアを奪われ、1998年にはソースコードを公開し無料化するも、巻き返しは図れませんでした。

 Netscape社は1998年、IEとのシェア争いに負け、当時のAOLに買収されます。米国本社を残し、インターナショナルオフィスは日本支社を含めクローズしました。しかし、Webブラウザはわたしにとっては子どものような存在、見捨てることなんてできませんでした。また、日本に企業のユーザーがいたので、それはどうにかしないといけないという責任もありました。米国本社と直接雇用契約をし、日本で“1人Netscape”を営むことになりました。

 ところが2003年、いよいよ米国が事業を縮小し、契約が結べなくなったときには、「もうWebブラウザの仕事も終わりかな……。足を洗おう」と、引き際を覚悟しました。しばらくは、知人の会社で携帯メーラーの開発を手伝ったりして、仕事をつないでいました。

 ほどなくして、AOLがWebブラウザ事業を切り離し、米国でMozilla Foundationが立ち上げました。その話を聞いて、日本でも組織の立ち上げを呼び掛けました。

 資金が1円もない、まさしくゼロからのスタートでMozilla Japan立ち上げの準備を始めました。オープンソース事業を手掛けるテンアートニ(現:サイオステクノロジー)さんに基金を拠出していただき、2004年、事務局とエンジニアの吉野とわたしの3人で、Mozilla Japanを創設しました。当初は米国Mozilla Foundationも立ち上がったばかりで、十分な支援が受けられない状況だったので、本当に苦しかったです。企業でIEがほぼ100%のシェアを独占する中、「Firefoxは企業で使えるWebブラウザ」だと普及活動をしても、どの企業にも相手にしてもらえませんでした。

 2005年ころから日本でもブロードバンドが普及してWebの環境が良くなったことで、人々の関心が変わってきました。そこからです。Firefoxが徐々にシェアを伸ばしていったのは。

 Mozilla Japanを立ち上げ、軌道に乗せるまでには紆余曲折がありましたが、いまから考えると楽しかったです。逆境でしたが、オープンソースの波は必ず来るという確信がありました。わたしたちには「オープンソースの中で何がやりたいのか」という思いがありました。わたしは、Webブラウザにかかわってきた年数がすごく長く、自分で育てたバージョンのソフトウェアは、子どものような感覚でいました。それをむやみに捨て去ることができなくて、そのDNAが後々に受け継がれていくことを望んでいました。また、Webの世界を正しい世界にしたいという思いがありました。製品は競争があってはじめてその製品の良さが生まれます。だからIEも眠りから覚め、いろいろなWebブラウザも登場してきました。わたしたちは、自由でオープンなインターネットの世界を守り、もっと多くの人に「Webブラウザは1つではなく、自分に合った製品を選べるんだ」ということを知ってもらいたいと思っています。そのためにMozillaという組織があります。Webブラウザに携わって16年経ちますが、やっとここ1〜2年ですね、皆さんに理解していただけるようになったのは。

後編では、瀧田氏のMozilla Japan 代表理事としての役割、OSSにおける人材育成についてお伝えします。

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