第4回 したたかな千両役者
脇英世
2009/5/15
ジョン・スカリーのスティーブ・ジョブズ追放のクーデターに関しては、ジャン=ルイ・ガセーはスカリー側についた。クーデターは成功し、ジョン・スカリーはジャン=ルイ・ガセーを引き立てた。すなわち1985年から1987年にかけて製品開発担当副社長、1987年から1988年にかけ研究開発担当副社長、1988年から1990年にかけてアップルの製品、研究開発、製造部門担当社長と昇進を重ねた。こうなればジョン・スカリーの会長の地位が危なくなる。アップルは陰謀とクーデターの多い会社である。1990年3月、冷徹非情なジョン・スカリーは先制攻撃に出てジャン=ルイ・ガセーの研究開発担当社長の任を解く。事実上の追放である。追放したジョン・スカリーもその後アップルを追放されることになる。
アップルを追われたジャン=ルイ・ガセーは、1990年10月、Be(ビーと読む)を設立する。Beという奇妙な会社名は、会社名のアイデアを考えるようにいわれた部下が辞典をBまでしか調べられなかったと報告したことに端を発するといわれている。ジャン=ルイ・ガセーはBとEをくっつけ、Beという会社名を考え、自分でBeのロゴをマックドローでデザインした。
Beの製品は、BeBOXというコンピュータとBeOSというオペレーティングシステムである。BeBOXの発売は1995年10月3日である。奇妙な工業製品を作り出すフランスの伝統に恥じない、青色に塗ったコンピュータだ。パワーPC603を2つ搭載し、ISAスロットを5つ、PCIスロットを3つ持っている。入出力ボードはすさまじい重装備でライン入出力、MIDI入出力各2チャンネル、シリアルポート4、ジョイスティックポート2、赤外線ポート3、マウス1、ジークポート1という内容だ。貧乏人のシリコングラフィックスと呼ばれている。完全にハイバンドの対話型デジタルメディアアプリケーション用に的を絞っている。パワーPCを2つ積んだことからパワーマックの上位機的な色彩を持つ。
ジャン=ルイ・ガセーがこのような大胆なアーキテクチャを選択した理由は、成熟市場に神風攻撃をかけるのでなく、デジタルメディアのようなニッチ市場に特化して生き残りを図りたかったからである。そういう前提があれば、マッキントッシュ互換やIBM PC互換のような古いアーキテクチャよりも新しいアーキテクチャの方が向いていることを、「マッキントッシュ・ソーセージ工場の中で暮らしてきた」ジャン=ルイ・ガセーはよく知っていたのである。
BeOSは、マルチタスク・マルチスレッド、対称形マルチプロセッシング、オブジェクト指向設計、リアルタイムメディアと通信などの特徴を持つ。もともとBeBOX用のデジタルメディアアプリケーション用に標的を絞ったOSだった。
これも巨人マイクロソフトの支配下にあり、成熟市場であるオフィス製品市場に攻撃を仕掛けるつもりはないという絞り込んだ戦略であったのである。あくまで深い塹壕(ざんごう)に立てこもったシニカルな防御戦術で、これなら絶対に負けない。
ところが事態は大きく変わった。まさかと思われたが、アップルのパワーマック用の次期OSであるコープランドの開発が失敗したのである。アップルは緊急にパワーマック用のつなぎのOSを必要とすることになった。1996年後半には、アップルがBeの買収を本格的に検討するという、予想もしなかった事態になった。そこでBeとしても、まったく戦略的に予定外だったパワーマックへのBeOSのポーティングを開始した。この努力は、パワー・コンピューティングが自社のすべてのマッキントッシュクローンにBeOSをバンドルすることになったため無駄にはならなかったのだが、1996年12月20日、アップルが救世主として選んだのはジャン=ルイ・ガセーのBeではなく、スティーブ・ジョブズのNeXTソフトウェアだった。Beへはインテルまでが接近する事態になった。
長い目で見れば、計画したものでなく外部の力に抗しきれずにBeが汎用OSへの道を歩み出したことは失敗だろう。塹壕から飛び出して白兵戦を開始してしまった。しかしジャン=ルイ・ガセーにしてみれば、これほどの注目を浴びる誘惑には勝てなかったのではないかと思う。
インターネット上には、英語ではあるけれど、ジャン=ルイ・ガセーのインタビューがたくさん採録されているから、読んでみることをお勧めしたい。なかなかエキサイティングで後を引く。1つ読むと必ず次も読んでみたくなるから、なかなか魅力のある男である。
■補足
1996年、危機に瀕したアップルはジャン=ルイ・ガセーのBeを買収しようとしたが、買収価格で折り合いがつかなかったといわれる。1996年12月20日にアップルが救世主として選んだのはスティーブ・ジョブズのNeXTソフトウェアだった。買収価格は4億ドル程度であったといわれる。注目を集めたBeには日立やインテルが接近した。
Beの弱さは赤字体質にあった。収入よりも支出がずっと多かったのである。またBeの不運はLinuxという新興勢力が出現してきたことにあった。
しかし、Beは1999年7月20日、自社の株式を公開した。さらに12月にはコンパックも接近してきた。しかし業績は一向に好転しなかった。苦しんだBeは2000年1月にはBeOSをフリー・ソフトにしてウィンドウズに反撃を試みた。無謀であった。確かに4月までの3カ月間に55万本のBeOSがダウンロードされた。しかしまったく収入にはつながらない。
2001年8月、力尽きたBeはパーム社に身売りした。買収価格は1100万ドルと極めて安かった。2002年1月1日ジャン=ルイ・ガセーはBeを辞職することを発表した。長い戦いに終わりが来たのである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
» @IT自分戦略研究所 トップページへ |
@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。
現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。
これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。