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IT業界の冒険者たち

第25回 ゾークに魅せられた学生たち

脇英世
2009/6/18

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 ゾークのほかの言語版については、DECの匿名の技術者がFORTRAN言語への移植を行った。面白いことに、不可能といわれたMUDDLE言語からFORTRAN言語へのゾークの移植を成し遂げたDECの技術者は自分の名前を明らかにしたがらないのである。

 大学院生たちを指導する立場にあったMITのアル・ベッツア(Al Vezza)教授は大学院生たちに会社をつくるように勧めた。もちろん自分も参加した。これによって1979年6月22日、インフォコムが設立された。不思議なことに最初は何を製品とするかは決まっていなかったらしい。誰かがゾークを製品にしようというとそれに決まった。

 さて、これより先、ジョエル・ベレズ(Joel Berez)はMITのコンピュータ科学科を卒業しピッツバーグで家業の建設業に従事していた。またマーク・ブランクは医学部を卒業しピッツバーグで医者としての道を歩み始めた。同じピッツバーグに居合わせることになった2人は昔を懐かしみ、何か自分たちにできることはないかと話し合った。DECのミニコンPDP-10上で開発されたゾークは1Mバイトの大きさがあった。2人はラジオシャックのTRS-80のようなパソコンでもゾークが動くように、ゾークのサイズの圧縮を考え始めた。彼らはゾークを走らせるZマシンという仮想コンピュータを定義し、Zマシンのインタープリタプログラム(ZIP)とゾーク・インプリメンテーション言語(ZIL)を定義した。これによってゾークをTRS-80の上でも動かせるようにした。1979年、ジョエル・ベレズとマーク・ブランクはボストンに戻り、ジョエル・ベレズはインフォコムの社長に選ばれた。ゾークIがインフォコムの最初の製品になった。

 こうして会社はでき、製品は完成したものの、この製品をどう売るかについてはインフォコムのメンバーはいまひとつ迫力がなかった。彼らは自分で流通チャンネルに乗せるのを嫌い、大手のソフトウェア会社であるパーソナル・ソフトウェア(PS)の流通チャンネルに乗せてもらう道を選んだ。このときのパーソナル・ソフトウェアのプロダクトマネージャが有名なミッチ・ケイパーである。

 TRS-80版のゾークI のデモは1980年2月に始まり、販売は1980年12月に開始された。ZIPのアップルII版はブルース・ダニエルズによって1980年12月に作成され、アップルII 版のゾークI も完成して販売されることになった。TRS-80版のゾークI は1500本、アップルII 版は6000本売れたという。

 続いて1981年4月、続編のゾークII が完成し、パーソナル・ソフトウェアに提示され、1981年6月ライセンスされた。当時、パーソナル・ソフトウェアはビジコープと名前を変え、ビジカルクのシリーズを売りたかったために、ゲームには関心を失いつつあった。

 1982年インフォコムは自立の道を選んだ。自立後、ゾークIII、スタークロスのようなヒット商品が出た。

 ところがインフォコムの首脳陣であるマーク・ブランク、ジョエル・ベレズ、アル・ベッツアは最終的にはゲームでなく、ビジネスソフトを売りたいと思っていた。ゲームの専業メーカーになる気はなかったのである。1986年インフォコムはコーナーストーンというデータベースソフトを出した。これが大失敗で、インフォコムのつまずきのもとになった。そこへシエラ・オンラインを中心としてゲームのグラフィックスとサウンドへの指向が始まり、対応の遅れたインフォコムは大打撃を受けることになる。

 文字だけの画面に満足し、鉛筆で地図を書いて、何十時間もゲームを継続して「アドベンチャー」ゲームを解くのをユーザーに期待することは次第に無理になった。グラフィックスがあった方が楽だし、音もあった方が楽しい。それに地図は自動的にコンピュータに表示してもらえばいい。インフォコムのユーザー層は次第に高年齢層化し、若年齢層に見放されることになる。さらに任天堂とセガのゲームマシンはインフォコムのゲームに壊滅的打撃を浴びせることになる。

 1986年2月、インフォコムはアクティビジョンに買収された。1988年、コンピュータ・ゲームはマス・マーケットになり、追随できなくなったとして、ジョエル・ベレズはインフォコムの社長を辞め、家業に専念するためピッツバーグに帰った。

 アクティビジョンは次第にインフォコムを疎ましく思うようになり、1989年開発部隊は東海岸から西海岸へ移された。アクティビジョンは社内リストラで新設のメディアジェニックの子会社になった。メディアジェニックはザ・ディスク・カンパニーと社名変更し、さらに再びメディアジェニックと名前を戻した。

 つまりインフォコムは完全に崩壊したのである。

 インフォコムの失敗の陰には、パソコンの時代であるにもかかわらずミニコンに固執したこと、ゲームは自分で売るべきであったのに委託販売の形式を取ったこと、ゲームで成功したにもかかわらずビジネスソフトへ鞍替えを図ったこと、グラフィックスやサウンドの導入など新しい時代への対応を怠ったことなどが考えられる。いつでもいまひとつ腰が引けていた点が滅んでしまった理由だろう。

補足

 ゾークはいまだに人気があり、インフォコムのホームページも残っている。ゲームの古典となってしまったのだろう。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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