第39回 Javaの女王
脇英世
2009/7/14
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
キム・ポーレーゼ(Kim Polese)――
元マリンバCEO
1995年3月23日、キム・ポーレーゼは大きな賭けに出る。同日のサンノゼ・マーキュリー・ニュースのインタビュー記事でキム・ポーレーゼはJavaを吹きまくったのである。この記事が火付け役になる。この記事の中で、インターネットの絶対的カリスマであるマーク・アンドリーセンが手形の裏書きをしてくれた。キム・ポーレーゼはJavaの発表2週間前にマーク・アンドリーセンにJavaを見せておいたのである。
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「連中のやっていることは否定すべくもなくまったく斬新なんだ。そりゃあもう素晴らしいものだよ。まだネットワーク上でみんながやりたいと考えていることで、それをやれるソフトウェアがないものはたくさんあるんだ」
これで一挙に燃え上がった火はインターネットで増幅され、キム・ポーレーゼの仕掛けは大成功する。Java、Javaと大騒ぎになる。インターネットは干し草に火を投げ込むようなところがある。マッチ1本の火が全世界を覆う大火事になるのである。
すべてはうら若き美女のしたたかなまでの計算に基づく大ばくちにあった。ある意味でまったく実体の伴わない大芝居であった。大体オークは負けてばかりいたのである。セットトップボックスではシリコングラフィックスに敗れ、ゲームマシン分野では3DOの提案募集に参加しても敗れ、1994年、ファーストパーソンは解散になっていたのである。売れ残りの不良在庫品の包装を変えて大々的に売り出したようなものだ。
キム・ポーレーゼは、Javaブームが仕掛けられた誇大宣伝であることを承知していた。しかしそれが悪いこととは思っていなかった。彼女にいわせれば、悪い誇大宣伝でなく良い誇大宣伝であったからである。こうして連戦連敗のオークはJavaとして飛び立ったのである。
キム・ポーレーゼは自分自身の会社を持ちたくて仕方がなかった。どうして自分の会社が欲しいかは分からなかったが、ある程度まではうまくやれるだろうということは分かっていた。キム・ポーレーゼは会社を成功させるには適切な製品、適切なグループ、適切な時期、適切なマーケットだけが問題であることを知っていた。急ぐ必要はなかった。彼女はビル・ゲイツのように、30歳までに億万長者になる必要もなかったのである。
新会社の設立に当たっては、ファーストパーソンにいた3人の技術者に目を付けた。Javaの開発チームの中心人物アーサー・バン・ホッフ、ジョナサン・ペイン、サミ・シャイオの3人である。
アーサー・バン・ホッフは英国のグラスゴーのストラスクライド大学でコンピュータ科学の修士号を取った。1996年3月まで、JavaソフトでJavaのコンパイラ、ホットJavaのベータ版、Java言語とJavaアプレットのAPIを書いていた。
ジョナサン・ペインはグリーン計画に参加していた。*7(スター7)のためのマルチメディア・ツールキットを書いた。Javaのデバッガ、ホットJavaのアルファ版、ネットワークのAPIとプロトコルのアルファ版を書いた。
サミ・シャイオはスタンフォード大学の言語学科とコンピュータ科学科の学部を卒業、ミシガン州立大学のコンピュータ科学科で修士号を取って、ファーストパーソンで働いていた。Java関係ではAWT(アブストラクト・ウィンドウ・ツールキット)とアプレットのセキュリティ機構を作った。
1995年暮れ、ボストンで開かれたWWWカンファレンスで新会社の設立について話し合いが進められた。キム・ポーレーゼを筆頭とする4人は1996年2月にサン・マイクロシステムズをスピンオフして新会社マリンバをつくった。マリンバの社名についても、Java同様キム・ポーレーゼが命名した。サン・マイクロシステムズを去ることによってJavaを捨てたわけではなく、むしろJavaを前進させていると声明した。
やり手のキム・ポーレーゼはベンチャーキャピタルを巧みに操った。キム・ポーレーゼは女性の魅力を十二分に利用している。キム・ポーレーゼは契約でも賢明で、マリンバは特定の1社にしか利用を許さない排他的契約は締結しない。
カスタネット(Castanet)がマリンバの代表的な製品である。マリンバのカスタネット技術はネットスケープのネットスケープコミュニケータに組み込まれることになっている。マリンバは、極めて短期間に成功を収めている。
■補足
キム・ポーレーゼは2000年7月、マリンバの最高経営責任者(CEO)の職を辞した。4年数カ月でキム・ポーレーゼの時代は終わった。趣味のジャズ・ダンスやバレーで息抜きをしながら、仕事一筋に男社会と戦った4年間であった。せっかく誕生させたJavaをうまく使い切れなかったことが、マリンバの苦戦につながったのだろう。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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