第53回 ゴマ塩頭とアゴヒゲをトレードマークとする男
脇英世
2009/8/7
デルバート・ヨーカムの目から見たボーランドは次のようなものだった。「ボーランドは偉大な名声、偉大な人々、偉大な製品という資産を持っている。一方、マーケティングとセールスとマネジメントは貧しい」。確かにボーランドは製品の出荷時期をとってみても、非常に気まぐれで場当たり的であった。ある四半期に2つも3つも新製品が出るかと思えば、幾四半期にわたって新製品がまったく出ないこともあった。デルバート・ヨーカムは毎四半期ごとに少なくとも1つの新製品かアップグレード製品を出荷することを約束した。
1997年のボーランド・カンファレンス97の基調講演で、デルバート・ヨーカムは次のように述べている。「われわれは全員がハイテクのベテランである新しい経営チームを持っています。このチームは、これまでボーランドが持っていた経営チームの中で最も経験に富んだ経営チームです」「ボーランドの新しい経営チームは、パートナープログラムのリニューアルと強化に取り組もうとしています。われわれは、われわれの勝利のためには、われわれのパートナーの勝利が必要ということを理解しています」
確かに、これまでのボーランドの最高幹部とはいい方が違う。
デルバート・ヨーカムは戦略方針を大転換して、ボーランドのターゲットを、個人ユーザーから企業に変えた。ボーランドに忠誠を尽くしてきた個人の開発ツールユーザーを見捨てても企業向けツールの方が利益が多いのである。1997年2月、ボーランドはビジジェニックソフトウェアを1億1100万ドルで買収した。ビジジェニックは企業向けのCORBA分散オブジェクト技術やORB(オブジェクト・リクエスト・ブローカー)製品を開発していた。
ボーランドの企業のIT(情報技術)部門向け製品からの収入は1995年は10%にすぎなかったが、1997年には54%に、1998年3月期には67%に、1998年6月期には73%になった。
1997年4月、ボーランドは子会社のインターベースソフトウェアを設立した。アシュトンテイトから買収したdBASE系のデータベース製品を収容する会社である。実際1998年8月、ボーランドはビジュアルdBASEをインターベースソフトウェアに移管した。
一方、ボーランドの窮境を見たマイクロソフトは、30カ月の間に34人ものボーランドの技術者を引き抜いた。マイクロソフトは多額の株式のオプションを提示して技術者たちを引き抜いたようだ。技術担当副社長のボール・グロスを引き抜いて、開発ツール担当副社長とした。ボーランドの売れ筋であるDelphi(デルファイ)のチーフアーキテクト、アンダース・ヘイルスハーグも引き抜いた。エースを引き抜いてしまったのであるから、ボーランドが激怒したのも無理はない。1997年5月7日、ボーランドはマイクロソフトを訴えた。訴訟は勝ち目がないといわれたが、1997年9月19日、訴訟は示談となり和解した。和解条件は公開されていない。マイクロソフトがボーランドに和解金を支払ったらしい。
1998年4月29日、ボーランドはインプライズと社名変更した。この社名変更はデルバート・ヨーカムの満々たる自信を示したものだろうが、多少やりすぎであったように思う。なぜなら、アイデンティティを失ってしまったからである。インプライズの売り上げは思うように増えていない。インプライズの売り上げ全体において、デスクトップ製品の占める割合は27%になった。企業向け市場にシフトするという大方針があったうえに、日本での売り上げが減少し、2大主力製品のパラドックスとビジュアルdBASEからの収入が減ったためである。
1999年3月31日、デルバート・ヨーカムは突然インプライズを辞任した。インプライズはその後、ボーランドに社名を戻した。
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