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IT業界の冒険者たち

第55回 クロメンコを作った2人

脇英世
2009/8/11

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 さて、クロメンコ社の事業は、まずオルテアー8800用のメモリ基板を販売することから始まった。クロメンコは、メモリ基板をプロセッサ・テクノロジーに外注していた。これは、ホームブリューコンピュータクラブのモデレータとして知られるリー・フェルゼンスタインが設計したボードである。MITSのメモリ基板は粗悪品が多く、品質の良いクロメンコ社の製品はたちまち評判を上げた。ただ、それもほとんど動作しないとまでいわれたMITSのメモリ基板と比較しての話である。もともと、安価な部品を使用していたのに加え、メーカーによる行き届いた部品管理を受けていたわけでもなかった。さらに、設計もアマチュアだったため、トラブルはつきものであっただろう。ソケットを多用していたこともあり、不良品率は決して低くはなかったように思う。

 クロメンコは、1976年ごろからマイコン本体用基板の製作販売に乗り出した。クロメンコはZ80を使うことで、MITSやIMSAIとの差別化を図った。ただ、クロメンコは、IMSAIの筐体と同じ物を使っていた。よって、クロメンコのマシンとIMSAIのマシンを外見で見分けるのは、少々難しかった。

 また、クロメンコは内部バスにオルテアーバスを採用した。すでにオルテアーバスは、MITSとIMSAIが採用したことで、普及していた。クロメンコは実績のあるオルテアーバスをS-100バスと呼んで採用したのである。S-100バスとは、スタンダード100バスという意味である。このネーミングは、あたかも米国標準であるかのような印象を与えることができる点で、なかなか頭脳的であった。標準が制定されたような錯覚を与え、標準仕様を採用したがっていた制御分野では、S-100バスがかなり長期的に利用された。実際、後にS-100バスはIEEE696として米国標準になったのだが、標準仕様の常で、標準として制定されたころには、S-100バスは時代遅れになっていた。

 こうして見ると、クロメンコの戦術は小判ザメ戦略で、実質的にはMITSとIMSAIのマシンをコピーして売ることであった。人気のある製品をまねしたうえに改良し、結果として本家よりも良いものを作り出してしまおうというのである。確かに無難な戦略ではあるが、S-100バスのような原始的なものをまねしていたのでは発展の見込みはなく、独自のバスを採用したコモドールのPET、アップルII、タンディのTRS-80が出ると、クロメンコはすぐにメインストリームの座を追われてしまった。ただ、クロメンコは商売がうまく、1977年にIMSAIが売却され、1979年にIMSAIが倒産してしまった後でも商売を続けられた。1983年の最盛時には、クロメンコの規模は従業員500人、年商5500万ドルにまで膨れ上がった。

 しかし、結局クロメンコはダイナテックに吸収されてしまった。1987年のことである。ダイナテックはダイナテック天候システム、ファズ・バスターなどの子会社を持っていた。クロメンコはダイナテック天候システムに組み込まれ、ダイナテック・コンピュータ・システムズと名前を変えている。事実上、この時点でクロメンコは終えんを迎えたといってよいだろう。どこか寂しい気がする。

 1990年、ハリー・ガーランドとロジャー・メレンの2人はキヤノン・リサーチ・センター・アメリカの創立者となる。もちろん、キヤノンの子会社の米国法人である。21世紀に向けて設計された真にグローバルなイメージングアプリケーションを開発したいという思いを込めて設立されたそうで、この会社は現在も存続している。ここでハリー・ガーランドは副社長になっている。一方、ロジャー・メレンはスタンフォード大学の冬季コースなどで、いまも教鞭を執ることがあるらしい。1998年の冬と1999年の冬に、EE203で講義を行った記録が残っている。マイコンの初期に関係した人物は大学中退者が多いが、2人は大学院卒で博士号まで持っている。その点で、少し異色な存在といえる。

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