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IT業界の冒険者たち

第58回 Visual Basicの父

脇英世
2009/8/14

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 アラン・クーパーはC言語を使ってトライポッドの新しいバージョンを書いた。再び、業界中にトライポッドを見せて回ったが、興味を示す人は少なかったという。しかし、1988年にビル・ゲイツに見せると、「クール」といったそうだ。そしてその後、「この製品は、マイクロソフトの全製品ラインに重大なインパクトを与えるだろう」と続けたという。ただ、アラン・クーパーという人物の言辞には、多少大げさなところがあるので、割引して考える必要はあるだろう。とはいうものの、実際にビル・ゲイツはトライポッドを買いたいといい、買い取り交渉は数カ月続いた。

 結局交渉は成立し、トライポッドは暗号名ルビーへと変更された。アラン・クーパーは数名のプログラマを集めて、本格的なルビーの開発に入る。アラン・クーパーの書いたプログラム・コードは廃棄され、新たにプログラムが書き起こされた。18カ月後にルビーは完成し、C言語で2万5000行にまで膨れ上がっていた。1990年、ルビーは早々とマイクロソフトに納品されている。

 ルビーを受け取ったマイクロソフトは早速、この改造に入った。ルビーには簡単なシェル言語が付加されていた。マイクロソフトはこの言語をクイックBASICに変えた。ルビーのインターフェイスの発展形がVBXになる。

 アラン・クーパーは、ルビーがウィンドウズ3.0とともに出荷されることを期待したが、マイクロソフトはウィンドウズ3.0のシェルには、OS/2のシェルとそっくりなものをリリースし、ルビーの出番はなかった。また、もともとルビーはウィンドウズのシェルの構築セットであったが、マイクロソフトはルビーにクイックBASICを組み合わせてビジュアルなプログラミング言語に変更する決定をした。これがVisual Basicである。一方、アラン・クーパーは、マイクロソフトとの間に機密保持契約を結んでいた都合上、Visual Basicについては、1992年までの4年間、何も話せなかった。

 さて、1992年のある日、Visual Basicの解説書を書いていたミッチェル・ウェイトから、アラン・クーパーの元へ電話があった。そして2人で会ってVisual Basicについて話し合っていると、彼がこういった。

 「それでは、あなたがVisual Basicの父なのではないですか」

 こうして、アラン・クーパーはVisual Basicの父と呼ばれるようになった。1994年の5月、ジョージア州アトランタで開催されたウィンドウズワールドにおいて、ビル・ゲイツはアラン・クーパーにウィンドウズパイオニア賞を授与した。これにより、Visual Basicの父であることが公的に認知されることになる。

 ただ、ルビーが1990年にマイクロソフトの手に渡り、Visual Basicとして生まれ変わってからというもの、アラン・クーパーは一切Visual Basicに触れていない。開発はマイクロソフト内で行われ、まったく関与できなくなってしまったのである。そうした意味で、Visual Basicとアラン・クーパーをあまり強く結び付けるのは危険だろう。

 アラン・クーパーは、1985年に結婚している。奥さんのスーザンは、1994年にクーパー・インタラクション・デザインに入社しており、最高経営責任者に就任した。仲の良い夫婦で、子どもは2人いる。

 そのほか、2冊の本を書いている。IDGブックスから出ている1995年の『アバウト・フェイス:ユーザー・インターフェイス設計の基本』と、1999年の『コンピュータは、むずかしすぎて使えない!』である。『アバウト・フェイス』は「回れ右」という軍隊用語で、2冊目の表題もかなり過激である。

 私生活では趣味が多く、鉄道模型、飛行機、ロケット、コンピュータゲーム、料理と多彩である。鉄道模型では1944年6月6日の北カリフォルニアのセントラルバレーに設定した情景を組んでいるらしい。

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