新人類の加入
富田倫生
2009/9/4
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1977(昭和52)年4月、後藤富雄がアメリカに出発する直前に入社し、マイコン販売部に配属された新人は、ある種の新人類だった。マイクロコンピュータに対するゲテ物観をなかなかぬぐいきれなかった渡辺和也はもちろん、好きこのんで評価用ボードをいじり回した経験を持つ後藤富雄と加藤明の目から見ても、この新人が新しい世代に属していることは明らかだった。
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土岐泰之――。千葉大学工学部電子工学科に籍を置いていた彼が学生生活の最後の年を過ごしている夏に、日本電気からTK-80が発売され、大変な人気を集めた。その直後には、日本初のマイコン誌『I/O』が創刊され、これも急速に部数を伸ばしていった。
だが土岐は、TK-80にも『I/O』にも手を伸ばそうとはしなかった。彼は、半歩だけブームの先を行っていた。
土岐の愛読誌は『ドクター・ドブズ・ジャーナル』。渡辺がアメリカで見つけ、定期購読の手続きをとっていたマイコン誌の走りである。さらに、土岐は、あらかじめメーカーによって設計されたキットには飽き足らなかった。彼は秋葉原でマイクロコンピュータやメモリーのLSIを買い集め、自ら設計してコンピュータのシステムを自作していた。
技術的にはブームの半歩先を走っていた土岐だったが、マイクロコンピュータを中心にして組んだシステムを、個人用のコンピュータととらえるという点においては、ブームのまっただ中にいる人と変わりはなかった。土岐の目にはTK-80は最初からコンピュータに見えた。絶望的に貧弱なマシンではあったけれど――。
渡辺和也はこの新人類に、評価用キットとして生まれたTK-80をコンピュータとして育て上げる作業を命じた。
課題はすでに、土岐自身も所属する新人類のユーザーたちによって示されていた。テレビやタイプライター型のキーボードなどと接続するための回路、もっと大きなメモリー、そしてベーシック――。
のちに振り返ってみればきわめて大きな意味を持っていた作業は、入社数か月の新人の手に委ねられた。だが当時、そのことをいぶかった者は、マイコン販売部には1人もいなかった。パーソナルコンピュータに関しては、まだプロフェッショナルと呼ぶべき人間は1人も存在していなかった。新人もベテランもない。それにかかわるすべての人間が、偉大なアマチュアだったのである。
TK-80にコンピュータらしい表情を与えるために用意された製品は、TK-80BSと名付けられた。BSとはつまり、ベーシックが使えることを指している。
入社後間もない新人は、手ぎわよくTK-80BSをまとめ上げた。ベーシックの翻訳プログラムは、公開されて誰もが使うことを許されていたパロアルト版のタイニーベーシックをもとに、機能を強化、拡大して練り上げた。
TK-80に接続して使い、これを使いやすいコンピュータに変身させるTK-80BS、および関連製品の発表は、1977(昭和52)年の暮れに行われた。
一人歩きを始めたTK-80を追ったマイコン販売部は、具体的な足跡をまず1つ残した。
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