力はいずこより
富田倫生
2009/9/17
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
マイクロコンピュータを売るため、その仕組みを理解してもらうための教材として作られたTK-80――。
そのTK-80をユーザーは教材としては認識しなかった。作り手の思惑を超えて、個人で所有できるコンピュータとしてとらえていった。教材として作ったTK-80をコンピュータとして見れば、絶望的に能力がなく、使い勝手を無視した超貧弱マシンと映る。
しかしすべては、この偉大なる誤解から生じたのである。
この誤解を胸に刻み込んだユーザーとサードパーティーは、超貧弱マシンTK-80を押し上げはじめる。電源が売り出され、周辺機器が接続され、ベーシックが使われるようになる。
そのエネルギーを肌に感じて、マイコン販売部は名称はそのままに、徐々にパソコン部隊へと変貌を遂げていく。官需一本やりの日本電気に新しい風穴をあける、企業内ベンチャーの主役に自己革新していく。
TK-80が生まれ、コンポBSがまとめられ、そしてPC-8001が爆発する。
では、すべての原点となった偉大なる誤解は、なぜ生じたのか。
「日本電気のパーソナルコンピュータが伸びてくるにあたっては、カスタマー、そしてサードパーティーの力が大変大きく働いた。もし日電のパソコンを、その道の専門家であるコンピュータ事業部が作っていたら、おそらくはいろいろな応用ソフトウエアは自分で作っていたでしょう。これまでのコンピュータの常識では、ソフトはハードとは切り離せないもの、ハードのおまけ的存在で価値を認められないものでしたからね。ハードを買えば、当然付いてくるものと思われていた。
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ところがパーソナルコンピュータを内職で始めたデバイス屋さんには、応用ソフトを作る力などとてもない。どうしても外部の力、サードパーティーに頼らざるをえない。それも、サードパーティーを指導していく力なんてないから、とにかく自由に、勝手にやってもらうしかない。
こうした新しいスタイルは、一面でソフトウエアの独立した価値を認めさせる、という効果を生んだ。現在ではこの影響で、オフィスコンピュータのレベルでもソフトの価値が認められるようになっています。
それとそもそも、応用ソフトを日電の力だけでやったとして、パーソナルコンピュータがここまで伸びたかどうか。サードパーティーとカスタマーに引きずられ、彼らのエネルギーが注ぎ込まれたからこそここまで伸びてきたんでしょうね」
日本電気副会長、大内淳義は今そう語る。
では、日電のPCシリーズに注ぎ込まれたというサードパーティーとユーザーのエネルギーは、どこから来たのか。
取材を終えたあと、腰を上げかける日本電気支配人、渡辺和也に、もう一度日電に新しい種をまき、企業内ベンチャーを繰り返してみたいかと問うた。
「やりたい」と即座に答えてから、渡辺はしばらく考え込み「けれどあんなチャンスは、もうないかもしれない。あんな大きな波は、もうやってこないかもしれませんね――」と付け加えた。
TK-80を彼方へ運んだ大きな波――。
では、その波はどこから来たのか。
何から何までを自分たちでやっていたTK-80からPC-8001にいたる時代。
パソコン事業が組織的に展開されている現在に対し、パーソナルコンピュータ開発本部開発部主任、加藤明はときにさびしさを覚えるという。
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