大学受験に背を向けた日
富田倫生
2009/9/28
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1971(昭和46)年、インテル社によって世界初のマイクロコンピュータが開発されることになる年の3月、校内の逸脱分子たちは大量に卒業していった。
4月、タケシは高校3年生になった。
2年たらずのうちに32号まで続いた『しかし』は、卒業生からの原稿もまじえて数号続いたあと、もう出なくなった。
ずいぶんと静かになった校内で、タケシは宙に浮き上がったような奇妙な感覚を味わっていた。ハシゴを上って屋根に出たところで、突如ハシゴは倒れた。では、もう一度地上に飛びおりるのか。それともどこかへ自らがハシゴをかけ渡し、その場所を目指すのか。
では、ハシゴを渡すとして、いったいどこへ――。
その答えが出ない。
例年なら進学率が100パーセントに近いこの高校では、クラブ活動は2年生の秋、少なくとも3年になるまでには引退となり、学生たちは受験の準備に取りかかりはじめる。
1年上の逸脱分子たちも、その多くは大学を受験し、ある者は合格、ある者は失敗して浪人生活を始めた。
しかしタケシは、受験に向かう同級生たちに足並みをそろえる気にはなれなかった。
結局のところ大学なる存在は、国家なり資本家なりが大量の資金を用意して設置し、維持している空間ではないか。そこで何をやろうと、たとえ大学の現状に対して弓を引くような運動に加わろうと、所詮は大きなてのひらの中で遊ばされているようなものではないか。タケシにはそう思えた。
では、取りあえず自分なりに大学に対する拒否を宣言したところで、自分は何をやるのか。残された高校の1年を、どう過ごすのか。
タケシには答えられなかった。
高校2年の年から始められていた自主講座の1つ、コンピュータ講座にはタケシも必ず出席し、高級言語の1つであるフォートランの解説を受けていた。しかし1年上が卒業してしまうと、すっかり静かになった校内からは、自主講座の継続を望む声もほとんど聞かれなくなった。
3年生の夏休みを境に、タケシは高校にほとんど興味を失っていた。
「僕の高校生活は2年で終わったのだ」と腹をくくり、かろうじて出席日数の下限をクリアーできるだけ、授業に顔を出した。
そしてこの時期、タケシはヨーコへの傾斜を深めていった。
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