愛という、たよりない言葉
富田倫生
2009/10/8
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
愛という、たよりない言葉がある。
愛――。
あるときはこの言葉の中に、人生のすべての扉を開く鍵が見えることがある。しかしその鍵をつかもうと腕を伸ばしたところで、何人がそれに触れうるか。触れたと実感しうるか。また、てのひらにその感触を得たとしても、それをいつまで持続しうるか。
愛という言葉は何やら、自らの思いを込める箱のようなものなのかもしれぬ。
灼熱した思いを注ぎ込んでいけばとてつもなく重くもなれば、栓が抜け落ちて注がれたものが失われれば、ちり紙のしわ1つほどの重みもなくなろう。
その愛という箱に、何を注ぐのか。
ふいに目の前に現われた壮大な白いキャンバスを前にした少年の、生きることへの恐れにもにた感動か。
生命の律動の流れに沿った、性の灼熱か。
浴びるほどアルコールを注ぎ込んでも溶け出さぬ、結晶化した執着か。
すべり落ちる砂時計の砂の、1粒1粒を数える焦燥か。
洗いものの最中、プロ野球放送に合わせて夫の上げる歓声の不快か。
隣に並んだもう1本の歯ブラシ、その毛のだらしのない乱れか。
洗い立ての下着の交差する繊維越しに浮かぶ、清潔な空虚か。
ぼってりと重い布団にくるまれたような、繰り返しめぐる快感か。
それとも、肌に刻まれたしわ越しに浮かぶ、配偶者への憎悪なのか。
ヨーコは揺らぎはじめていた。
愛という名の箱に押し込んでいた栓が腐食しはじめ、そこに注ぎ込んでいたものが徐々に漏れていくのを感じていた。
そして、失われゆくものに代え、新しい何かをその箱に注ごうと思いはじめていた。
ヨーコはその心の揺れを、タケシに「放」した。
ヤマギシズムとは、1つの固定化した価値の枠組みを提供するものではない。むしろ安定に向かおうとする価値の枠組みをこわし、その時点時点で果たして何が真実であるかを問い続けようとする姿勢であろう。その思想的実践が、あらゆる前提を棚上げにし、零位に立って自らを調べなおす、研鑽(けんさん)と呼ばれる行為である。
このヤマギシズムへの接近は、タケシに再生の感覚を与えた。おそらくはヨーコも、同様の感覚を味わっていたのだろう。
だが、自らが解きえない問いを集団に「放」し、その場で調べなおしていくという方法を知った2人が、互いの愛を研鑽の俎上に載せることは、ともに修羅場に立ちそこで向かい合うことを意味しよう。
愛、いやもう少し私の実感に引き寄せて言えば、性の淵に言葉を1つ1つ打ち込みながらもぐり込み、その奥底を凝視し続けるという作業ほど困難なものが、果たしていくつあるのだろう。
山岸会の会員の資格は、どんなときにも腹の立たない人であるという。
もしも私がヤマギシストたらんとして、かなりの局面で腹の立たない人でありえたとしても、性の淵を凝視するときに果たしてその資格を保ちえるだろうか。
おそらくは性に関して、私は無所有という立場を守ることにもっとも困難を感じるに違いない。
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