■ 嚆矢アルテア アメリカに生まれる |
組み立てキット アルテア8800
富田倫生
2009/11/25
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1973年にテキサスインスツルメンツ社が電卓市場に参入して価格競争を仕掛けると、電卓キットで伸びたMITSはたちまち窮地に追い込まれた。
通信販売で電卓キットをさばくのにMITSが1台あたり39ドルを要したにもかかわらず、スーパーマーケットには29ドルの完成品の電卓が並びはじめた。
エレクトロニクスに対するマニアックな興味がこうじてMITSを起こしたエド・ロバーツは、会社を畳むのか、もう一度勝負に出るのか、いずれにしても思い切った手を打つ必要に迫られていた。
ロバーツが決断を迫られていた1974年の4月、インテルは新しいマイクロコンピュータ8080を発表した。
そもそもは日本の電卓メーカーだったビジコン社の依頼によって着手した電卓用部品の開発作業の中で、インテルは集積回路にきわめて規模の小さなコンピュータの機能を作り付ける発想を得た。発注元のビジコンは、新しい電卓を作るたびに一から設計する代わり、ソフトウエアの入れ替えによっていろいろな機能を実現できる集積回路が作れないかと考えた。開発費用削減のために融通の利く回路を用意しようというプランは、ビジコンとインテルの担当者の協議の中で、どうせならごく小さなコンピュータを作ってしまえという一歩突っ込んだアイディアに生まれ変わった。
エンジニアライフ コラムニスト募集中! |
あなたも@ITでコラムを書いてみないか 自分のスキル・キャリアの棚卸し、勉強会のレポート、 プロとしてのアドバイス……書くことは無限にある! コードもコラムも書けるエンジニアになりたい挑戦者からの応募、絶賛受付中 |
万能の物まね機械であるコンピュータは、組み合わせるソフトウエアによってどんな電卓にも化けることができる。ただし電卓に求められる機能を実現するだけのコンピュータなら、ごくごく規模の小さなものでよい。そもそもきわめて小規模なものに仕上げなければ、安価な電卓の部品にはとてもなりえない。
こうした発想にもとづいて開発した初のマイクロコンピュータ4004を、インテルは1971年11月に発表した。
コンピュータはすべての情報を、0か1か、オンかオフかいずれの状態にあるかという基本単位の組み合わせによって取り扱っている。
この最小の単位を、ビットと呼ぶ。
1ビットで表現できるのは、0か1かのいずれか。この最小単位を2桁組み合わせた2ビットなら、10進法の0から3までを表現できる。3ビットなら、0から7。4ビットなら0から15。つまり10進数を取り扱う電卓を作るのなら、4ビットを一度に処理できる構成にしておけば、1回の動作で0から9までの数字をすべて操作できておつりがくる。
こうして4004を4ビットとしたインテルは、1972年4月に発表した2つ目のマイクロコンピュータ8008では、8ビット構成を採用した。
当初大型コンピュータの端末用部品として開発が始まった8008では、数字に加えて効率よくアルファベットの文字を取り扱うことが設計の目標とされた。8ビット構成とすれば、0から9までの数字に加えてアルファベットのすべての文字を1回の動作で1つ処理することができた。
さらに3つ目の製品となる8080では、インテルは新しい発想を打ち出した。
これまでの2つが当初から特定の機器の部品として開発されたのに対し、8080はいろいろな機器に使える汎用部品を目指して作られた。
その後、大ヒットしてインテルの足場を固め、初期のパーソナルコンピュータに広く利用されることになるこの8080に、エド・ロバーツはいち早く目を付けた。
一匹狼の気概にあふれる彼は、8080を使って桁外れに安い組み立てキット式のコンピュータを作り、この技術を独占する者たちの手からマシンを解放するとともに、傾いた会社を救おうと考えた。
ばら売りでは、インテルは8080に350ドルの値段をつけていた。ロバーツはこの部品の成功にいまだ確信を持てないでいたインテルに掛け合って買い叩き、1個75ドルで8080を仕入れる約束を取り付けた。
コンピュータの回路において、情報の通り道に当たるバスと呼ばれる信号路を手っ取り早くスタッフに設計させたロバーツは、部品をかき集め、商品らしい体裁を整えるためにケースを用意した。
アルテア8800と名付けられたこの組み立てキットはまず、1975年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』誌で紹介された★。
★何事においても、もとに当たることが重要であるという教訓は、『ポピュラーエレクトロニクス』に掲載されたアルテアの紹介記事に関しても当てはまる。あらためて同誌を読みなおしてみると、アルテアの登場は「革命的な新製品の誕生」といった趣とはいささか異なるニュアンスで伝えられていることに気付く。 同誌のエディトリアル・ディレクター、アーサー・サルスバーグは、アルテアを紹介した号の「ホームコンピュータがやってきた」と題した巻頭言で、アルテア作りを同誌が読者に提案する〈プロジェクト〉と位置づけている。同誌はそもそも、自作派のエレクトロニクス・マニアのために、回路図や部品リストを備えた製作記事を掲載する雑誌である。同誌にはそれまで、3つのコンピュータ・プロジェクトの掲載の申し入れがあったが、サルスバーグは「LEDがちかちかするデジタルコンピュータのデモンストレーター」に終わるようなプランはすべてボツにしてきた。ところがインテルが処理能力を大幅に向上させた8080を発表し、さっそくこれを使ったアルテアの提案があったことで、後生の者の目にはかなりフライング気味とは映るが、「商用機に肩を並べるミニコンピュータの手作りが可能になった」と判断して掲載に踏み切った。 こうした経緯があってアルテアを紹介するにあたり、編集部はあくまで、同誌が読者に提案する手作りコンピュータ企画とのスタンスを守っている。記事には回路図や部品のリストが掲載されており、MITSのポジションは、部品に加えてケースや電源を、同社からまとめて購入することができるというところにとどめられている。同誌に記載された情報だけでは現実にはアルテアの製作は不可能と思われるが、形式的には提案者は編集部、実行者は読者であり、プロジェクトの主体性はMITSにではなく、編集部と読者に求められている。 パーソナルコンピュータでは、技術情報を徹底的に公開する文化的な流儀がその後大きな役割を演じることになるが、その出自をたどるうえで、初めてのMITSの紹介記事は着目すべき指標の1つであると思われる。 |
» @IT自分戦略研究所 トップページへ |
@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。
現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。
これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。