■ 嚆矢アルテア アメリカに生まれる |
MITSの頼りない実在
富田倫生
2009/12/1
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1975年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』は、1974年の12月半ばには書店に並びはじめた。
エド・ロバーツは当初、雑誌への掲載によって400台程度の注文が集まるのではないかと考えていた。だが雑誌が読者の手元に届いた日の朝から、MITSの電話が鳴りはじめた。その日のうちに、MITSは400台分の注文を確認した。アメリカ中から、小切手や郵便為替を同封した注文書が届きはじめた。
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このキット式のコンピュータをアルテアと名付けたのは、『ポピュラーエレクトロニクス』のテクニカルエディター、レズリー・ソロモンの娘だった。ロバーツの持ち込んだ企画には、当初名前が付いていなかった。ソロモンはSFドラマの「スタートレック」をテレビで見ている娘に、宇宙船エンタープライズに積んであるコンピュータの名前をたずねた。娘はただ「コンピュータ」と答えたが、エンタープライズは今、アルテアを目指しているのだと付け足した。
旅の途中に何が待ち受けているかは定かではなかったが、アルテアは確かに勇躍船出した。
『ポピュラーエレクトロニクス』の表紙用の写真を撮影した時点では、マシンはまだ動かないただの箱だった。だが突如殺到しはじめた注文にも、エド・ロバーツは動ずるところはなかった。
雑誌が刊行されるまでには、MITSはアルテアを組み立てて動かしてみることに成功し、製品に関する記事がでっち上げではないことを実証していた。1台を組み上げることができれば、MITSにとってはそれで充分だった。ロバーツは賢明にも、アルテアをキットとした。組み立てや検査の体制を整える必要はなかった。そんな苦労は、物好きなユーザーにすべて任せておけばよかった。MITSのなすべきことは、ともかく部品を素早くかき集めてきて郵送することだけだった。
カリフォルニア州のバークレーに住む建築業者スティーブ・ドンピアは、もっとも早い時期にアルテアを手に入れた1人だった。
西海岸では以前から、大企業や国家による管理のための装置としてではなく、1人ひとりの可能性を開く道具としてのコンピュータを目指して、ピープルズ・コンピュータ・カンパニーが活動を続けていた。この団体の催しでマシンに触れる機会を得てコンピュータに興味を持つようになっていたドンピアは、『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの広告を見つけるや、すぐにMITSに電話を入れて関連の製品リストを送ってくれるように求めた。
リストにあった製品をすべて1つずつ、4000ドルの小切手を添えて注文したドンピアは、首を長くして到着を待った。だが1月が終わり、2月が過ぎてもアルテアは着かなかった。繰り返し電話を入れても、MITS側は「必ず届くから」と繰り返すのみだった。そのうちにMITSからようやく届いたのは、2000ドルの小切手を同封した「リストにある製品はまだすべてがそろっているわけではない」との断りの手紙だった。
欲求不満が募る中で、ドンピアはアルテアをきっかけにしてアマチュアのコンピュータクラブが作られるというニュースを耳にした。
1975年3月5日、サンフランシスコ郊外のメンローパークにある発起人の家のガレージで開かれた初めての会合に顔を出すと、驚いたことにアルテアが動いていた。MITSのエド・ロバーツは、かねてからコンピュータ技術の大衆的な普及を目指して活動を続けてきたピープルズ・コンピュータ・カンパニーに、唯一存在していた完成品のアルテアを貸し出していた。そのアルテアが、ガレージの机の上でフロントパネルのランプを点滅させていた。
アルテアが実際に動くのをその目で確認したドンピアは、MITSという会社が確かに実在し、注文したあのマシンを自分が手にできることを確かめたいと、矢も盾もたまらなくなってサンフランシスコからロッキー山脈を越えてアルバカーキーに飛んだ。
空港でレンタカーを借りて住所を頼りにMITSを探したが、商店の立ち並んだあたりにはコンピュータメーカーの本社らしき建物は見当たらなかった。何度かあたりを行ったり来たりした挙げ句、ドンピアはマッサージパーラーとコインランドリーにはさまれた薄汚い小さな建物に、MITSの看板が出ているのに気付いた。
かつては確かに生きていたと思われる会社のジャンクにまみれた残骸のようなMITSでは、女性が1人で催促の電話の対応に追われ、「アルテアは間違いなくそのうちに届く」と繰り返していた。肩まで髪を伸ばしたドンピアは、頭のてっぺんまで後退した髪を短く切った、エド・ロバーツに話を聞くことができた。すでに4000台以上のアルテアの注文を受け付けたと豪語するロバーツは、MITSはやがてIBM以上の大企業になるだろうと大言した。
だがMITSはこの時点にいたってもなおキットの部品を集めきることができておらず、いつになったらユーザーへの郵送を始められるのか、そのめどもまだ立ってはいなかった。ドンピアはアルテア用に集められた部品をいくつか買い求め、MITSの頼りない実在を確認してバークレーに戻った。
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