日電オフコン「システム100」、マイコン化に先駆ける |
コンピュータ技術本部第2開発部
富田倫生
2010/1/12
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
こうした事態に対処するために、虎の子の超小型分野の建て直しプロジェクトがスタートすることになった。
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かつて日本電気がコンピュータに手を染めるきっかけを作った渡部和は、東北大学にSENACを納めてから本業の伝送技術に戻り、その後は中央研究所で通信とコンピュータ部門の管理にあたっていた。
その渡部がもう一度開発の現場に呼び戻され、新しい超小型機のコンセプトの取りまとめを任された。
1971(昭和46)年1月にコンピュータ方式技術本部の技術本部長に就任した渡部は、今後の需要の中心は、中小企業の事務処理の合理化であると考えた。
こうした認識にもとづき、プロジェクトは、中小企業が利用できる低価格と、専門のスタッフを置かずとも運用できる使いやすさとを兼ね備えたマシンを目標に据えた。
開発の実作業には、コンピュータの開発部門を一本化して設立されたばかりの、コンピュータ技術本部第2開発部があたった。
開発部長代理としてこのプロジェクトを管理する立場についた小林亮は、京都大学工学部電気工学科を経て1956(昭和31)年4月に日本電気に入社していた。
初めての配属先は、中央研究所の電子計算機研究室だった。当時開発が進められていたアナログコンピュータとデジタルコンピュータの橋渡しを行う技術や磁気テープ装置などの周辺機器、まだまだ特性の悪かったトランジスターを活用してコンピュータの性能を上げるための研究にここで取り組んだのち、1965(昭和40)年に研究所と玉川の工場の部隊を集めて新設された電子計算機開発本部に移った。この部署は日本電気独自方式の大型機に取り組んでおり、提携したハネウェルの流れを汲む機種は電子計算機事業部の技術部が開発を担当していた。
その2つの開発部隊が集められ、あらたにコンピュータ技術本部が設立されることになった。電子計算機開発本部では大型を担当してきた小林だったが、コンピュータ技術本部では一転して中、小型機担当の第2開発部を率いた。
その小林のもとに、超小型分野の新機種開発担当技術課長として浜田俊三が配属された。そして浜田の下に、データ通信の端末装置担当セクションで浜田と同じ釜の飯を食ってきた戸坂馨が設計主任としてついた★。
★日本電気におけるオフィスコンピュータの開発の経緯は、『「オフコン」絶え間なき変革 シェアナンバーワンNECの挑戦』(久野英雄著、NEC文化センター、1993年)に詳しい。著作の成り立ちの性質上、日本電気中心の史観で貫かれているが、貴重なコメントがすくい取ってある。 |
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