作表機の覇者IBM、電子計算機を押さえる |
IBMの誕生
富田倫生
2010/2/16
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
大型コンピュータの覇者であり、絶大な組織力と技術力を兼ね備えた国際的巨大企業であり、権威と管理の象徴的な色彩をもその名に帯びるにいたったIBMのルーツは、1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。
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南北戦争以降、急速に工業化を推し進めるとともに大量の移民を安い労働力として受け入れていったアメリカでは、連邦政府の国勢調査部門が、かき集めてきたデータを集計し、数字の山の中から有用な統計資料を引き出してくる作業に難渋していた。
そんな中で統計技官のヘルマン・ホレリスは、紋様の織り込みを自動化したジャカード織機と自動ピアノから、統計表作りの革新のヒントを得る。ジャカードも自動ピアノも、カードにあけた穴の位置によって機械の動作を制御している点に着目したホレリスは、個人のデータを1人1枚同様の穿孔カードに記入することで、集計から手作業を追放できると考えた。性別や年令をはじめとする調査結果を所定の位置に穴をあけて表現し、この穴によってカードを分類するホレリスの電気作表機は、彼の設立したタビュレーティングマシン社を急成長させるとともにライバルの誕生を促した。
競合による業績の悪化に直面させられたホレリスは1911年に会社を売り払い、新しいオーナーはこれを自動はかりの会社、タイムレコーダーの会社とまとめてCTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング)社を設立した。
そして1914年、キャッシュレジスターで急成長を遂げたNCR社で辣腕のセールスマンとしてのし上がったトーマス・ワトソンが、CTRの総支配人に就任する。ライバル企業を叩き潰すためには手段を選ばなかったNCRは、独占禁止法の違反容疑をかけられて裁判に追い込まれ、ワトソン自身もこれに連座して1度は有罪判決を受けた。この事件をきっかけにNCRを追われたワトソンは、CTRの経営を任されるや作表機を主力商品として位置づけ、セールスマンに多額の手数料をはずむNCR流の販売戦略を展開して同社を急成長させた。
ワトソンがCTRに転じた1914年7月に始まった第1次世界大戦は、軍需産業や行政府に迅速に処理すべき膨大な事務を発生させていた。大量生産、大量消費に向けて勢いよく資本主義のエンジンを回し続けるうえで、計算処理を自動化する道具は潤滑油の役割を果たした。
1920年代の不況期にも、CTRの作表機は会計業務の経費削減と在庫の適正化の道具として受け入れられていった。
1924年、CTRは社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシンズ)に変更した。
カードに穴をあける穿孔機(パンチ)、穴によってカードを仕分けする分類機(ソーター)、そしてカードに記録されたデーターを計算処理する作表機の3つの要素からなるパンチ・カード・システムを、IBMはレンタル制で供給し、保守やカードの販売でも収益を上げていった。
その後の世界経済がたどった規模拡大の歴史は、一面で計算処理の増大の歴史であり、これがIBMの発展の歴史と重なり合うことになった。
作表機市場で80パーセントを超える圧倒的なシェアを確立するとともに、ユーザーに自社のカードのみを使うよう強制して徹底した収益の追求を図ったIBMは、1932年には連邦政府によって独占禁止法違反で告訴された。ここで有罪判決を受けたことで、IBMは他社に競争の機会を与えるよう迫られたが、その後も同社の独占的シェアは揺るがなかった。
データー処理機械におけるIBMの独占にとって、脅威となりかねない可能性を秘めた新しい技術を生んだのは、第2次世界大戦だった。
この時期、計算機の能力を高めて軍事利用を図ろうとする試みが集中して進められる中で、ハーバード大学のハワード・エイケンはIBMの支援を受け、リレーと呼ばれる電気式のスイッチを使って、1944年に汎用自動計算機Markを完成させた。一方、ペンシルベニア大学のジョン・W・モークリーとJ・プレスパー・エッカートは、米陸軍弾道研究所の依頼を受けて、1943年から真空管を使った計算機の開発に着手し、1946年にENIACの稼働にこぎ着けた。
作表機市場でIBMにはるかに差をつけられながらも2番手につけていたレミントンランドは、1951年、コンピュータの開発事業に乗り出していたエッカートとモークリーによるマシンをUNIVACと名付け、初めて商品として売り出した。UNIVACから遅れることおよそ2年、科学技術計算用の701の発表にこぎ着け、続いて事務処理用の702を発表したIBMは、徹底した低価格攻勢によってレミントンランドを追いかけた。
1952年には再び連邦政府に告訴された経緯が示すとおり、相変らず作表機の市場を独占し続けていたIBMは、大企業や大組織のデータ処理の仕事をパンチ・カード・システムに載せて処理するノウハウを蓄積しており、ユーザーの要求を吸い上げる確固たる営業、技術体制を確立していた。
この体制を維持しながら、データ処理の機械だけを作表機からコンピュータに移し替えることにIBMは成功する。独占していた作表機市場で上げた利益を背景に、コンピュータを徹底して低価格化できたことも、競合する他社を振り切るうえで大きな武器となった。
1950年代後半、コンピュータの素子は寿命の短い真空管から、半永久的に使えて処理速度も高いトランジスターへと移り変わっていった。このトランジスターを用いた第2世代機でも、IBMは科学技術計算用で大型の7000シリーズ、事務処理用で比較的小型の1400シリーズを成功させた。作表機の時代と同様80パーセントを超えるシェアを誇るIBMに対し、わずかな残りを他社と分け合っていたハネウェルは1963年、IBM機の性能を大きく上回るH200を、1401用に書かれたプログラムをそのまま利用できるよう変換するソフトウエアと合わせて発表した。
IBM機用に合わせてプログラムを開発しているために、たとえ他社がすぐれたハードウエアを開発したとしてもシステムを変更しようがない。
こうしたくびきからユーザーを解き放つとして、「解放者」を意味するリベレーターと名付けられたソフトウエアとH200のコンビは、かなりの成功を収め、IBM互換機の可能性を実証することになった。
こうした他社の攻勢によって、数パーセントながらシェアを減少させたIBMは1964年4月、予定を大幅に繰り上げて開発中の新世代機、システム360の発表に踏み切った。
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