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パソコン創世記
パロアルト研究所を超えて芽吹く、ダイナブックの種子

PARC

富田倫生
2010/3/29

「このマウスというヤツが」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1970年代半ばからのパーソナルコンピュータの台頭は、誰もが所有できて情報に関する要求のほとんどをみたすダイナブックの成立の条件を、ハードウエアの側から整えつつあった。にもかかわらずゼロックスは、アルトの研究の成果を製品計画になかなかまとめ上げることができなかった。だがアラン・ケイが凝縮させたダイナブックのイメージは、たんぽぽの綿毛が風に運ばれるように、研究所の壁を越えはじめていた。

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 1977年3月号の『コンピュータ』に発表した「パーソナル・ダイナミック・メディア」に続いて、アラン・ケイは同年9月号の『サイエンティフィックアメリカン』誌に、姉妹編に相当する「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピュータ」を発表した。

 ゼロックスは1975年ごろから、特定の見学者向けにアルトのデモンストレーションを繰り返し行っていた。つごう2000台近く製造されたアルトは、パロアルト研究所で広く使われるようになっただけでなく、いくつかの大学や外部の研究機関、ホワイトハウスなどで運用されて一部から高い評価を受けていた★。

 ★アルトを誰がいつごろから見ていたかという実に興味深い疑問への答えは、『ワークステーション原典』所収「パーソナル分散コンピューティング-Altoとイーサネットのソフトウエア」中のディスカッションにおける、バトラー・W・ランプソンとアラン・ケイのコメントから得ることができる。

 
ランプソンによれば「Altoは1500台製作され、ゼロックスやさまざまな外部の組織に広く普及しましたが、その影響というのは、ほとんどがPARCを訪問した人たち――たいていの場合、夏期学生としてPARCに滞在した人とか見学者とかを通じてのものでした」という。ケイによれば「PARCでは、とくに私のグループではデモは生活の一部という感じで、実にたくさんやりました。アデルが1975年の記録を持っているはずです。その記録を見れば、75年は約2000人以上の人(1度に1人ではなく50〜100人のグループで、もっと少人数のこともありました)がLRGに来て通常のデモを見たわけです。さすがにうんざりしたので大幅に減らすことにしましたが、数年のあいだに大勢の人が見学しました。中にはこれをもとに何かをつくった人もいましたし、そうはしなかった人もいたわけです」という事情だった。

 ここでランプソンはアルトが1500台作られたとコメントしているが、日本で開かれた講演会「パーソナルコンピュータの未来像」ではケイが2000台作ったと語っていた。どっちにしろかなり作られたことには変わりはないが、思い出話の信憑性はだいたいこの程度のものである。

 1979年、カーネギーメロン大学はコンピュータのメーカー各社に「タイムシェアリングの時代は終わった」として、新種のマシンの開発に着手するよう求める提案を行った。

 タイムシェアリングは、充分な能力を持った対話型のシステムがあまりに高価で個人で所有できなかった時期、それに代わる取りあえずの解決策として生まれた。ところが1970年代半ばに生まれて以来、発展を続けてきたパーソナルコンピュータは、マイクロコンピュータを利用して本格的なシステムを作りうることを実証していた。今後のハードウエア技術の進歩を見込めば、1980年代の半ばには高解像度のディスプレイ、1Mバイトのメモリー、100Mバイトの補助記憶を備え、1MIPSの処理能力を備えたマシンが1万ドル程度になると予測できると提案は主張した。(『ワークステーション原典』所収「(パーソナル)ワークステーションの歴史について」ゴードン・ベル)

 ではそうしたマシンを作ろうではないかと呼びかけるカーネギーメロン大学の提案は、1980年代に入ってワークステーションと呼ばれる一群の高機能マシンが誕生するきっかけとなった。ともにマイクロコンピュータを利用するという点では、パーソナルコンピュータとワークステーションは兄弟だった。だがきわめて貧弱な機能レベルで生まれたパーソナルコンピュータが、よってたかって繰り返し拡張されていったのに対し、マイクロコンピュータの有効性が確認された段階で研究者の主導で誕生したワークステーションは、従来の研究の成果をはじめから充分に取り込んだ高機能マシンとなった。

 そしてワークステーションの開発を目指す者の前には、アルトという絶好の手本があった。

 カーネギーメロン大学を卒業後、パロアルト研究所に籍を置いてアルトを体験していたブライアン・ローゼンは、1970年代後半、スリー・リバース・コンピュータ社を起こした。1980年、同社は技術の出所をはっきりとその名に示した★ワークステーション、PERQを発表した。ポインティングディバイスとしてマウスの代わりに電子ペンを付けたほかは、アルトそのままのPERQを使って、カーネギーメロン大学は科学分野を対象とした、個人用の統合コンピュータ利用環境の開発プロジェクトに着手した。

 ★ゼロックスのパロアルト研究所は、しばしばPARC(Palo Alto Resarch Center)と略して呼ばれている。音では、このマシンの名称と同一である。

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