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パソコン創世記
京セラ、稲盛との出会いが生んだ2つの未来志向マシン開発計画

サイバネット工業という隠し玉

富田倫生
2010/4/5

「アルトの子供たち」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ファーストクラスの大きな座席から身を乗り出すようにして、メモ用紙にスケッチしたディスプレイの中にいくつもウインドウを書き入れ、アイコンの役割やマウスを使った操作の利点を熱を込めて語り続ける西和彦を、稲盛和夫は唇を固く結んで見守り続けていた。

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 「将来のパソコンはきっとこうなる。こうなればもっともっとたくさんの人が、パソコンを使うようになりますよ。稲盛さんは、そう思われませんか」

 西がこぼれるような笑みをたたえて視線を上げ、そう問いかけてきたときも、稲盛は押し黙ったままだった。

 気流になぶられて機体がすっと沈み込み、ベルト着用のサインが点いた。

 「その2つのコンピュータを、私に作らせてもらえませんか」

 機内に響くアナウンスの声を押さえ込むように、稲盛和夫がそう言った。

 西の口元から、その瞬間、微笑みが消えた。

 1959(昭和34)年の創業以来、年平均45パーセントの割合で売り上げを伸ばしてきた「京都セラミツク」は、1980年を前後して大きな壁に突き当たっていた。

 急激な成長と高収益の原動力だったICパッケージは、普及しはじめた安価なプラスチックというライバルに足下をすくわれはじめていた。集積度の高い高付加価値な集積回路は、相変らずセラミックスが押さえていた。だがコスト削減の厳しい圧力を受けた低価格のメモリーのパッケージは、急速にプラスチック製に置き換わりつつあった。こうした構造的変化に加え、アメリカの半導体業界の不況もあいまって、1981(昭和56)年3月期の経常利益は伸び率ゼロにとどまった。そしてすでに半分が過ぎた今期も、売上高、経常利益とも、改善の兆しは見られなかった。急成長こそが常態の「京都セラミツク」にとって、停滞は深刻な危機を意味していた。

 ICパッケージの成長に鈍化の兆しが現われる中で、稲盛はすでに経営多角化のための布石を打っていた。人工骨など医療用セラミックスの製造と販売にあたるニューメディカルと、人工宝石のクレサンベールの2つの子会社を設立してセラミックスのあらたな応用分野を拓こうと試みる一方で、宝石用台座の加工にあたる日本キャストと、通信、音響、事務機器メーカーのサイバネット工業に資本参加していた。

 これらの子会社のうち、唯一セラミックスと直接の関連を持たないサイバネット工業を傘下におさめたのは、1979(昭和54)年の秋だった。

 1969(昭和44)年5月、富士通の音響機器部次長だった友納春樹が設立した通信機器メーカー、サイバネット工業は、歴史の波に翻弄されてジェットコースターに乗ったような急成長と急激な衰退とを短期間で経験していた。

 出力をごく低く抑える代わりに、特別な免許なしに利用できる市民バンド(CB)用のトランシーバー専業で、安定的ではあっても着実な成長を遂げていたサイバネット工業にとって、1973(昭和48)年10月に勃発した第4次中東戦争以降の石油危機は神風となった。

 自動車なしでは日常生活が成り立たないアメリカでは、石油の払底によってガス欠による交通事故や、雪に閉じ込められた車中での凍死事故が起こったため、緊急時の連絡手段としてCB用トランシーバーが注目を集め、需要が爆発的に伸びはじめた。従来、前年比10パーセント程度だった売上高の伸びが、1974(昭和49)年には80パーセントを超え、1975年には、大きくジャンプした前年をさらに100パーセント以上、上回った。

 CB専門のサイバネット工業は、この需要急伸の波に乗って生産体制を一気に拡大していった。受けに入った同社は従来船便で送っていたトランシーバーの90パーセントを航空便にまわしてアメリカ市場の急拡大に応えたが、1976(昭和51)年1月15日にはついに貨物輸送専用のジャンボ機をチャーターして、3万8000台を一気に空輸するにいたった。前年11月の同社の輸出台数19万9000台、12月の22万8000台は、この月、28万台に達した。その後もサイバネット工業は月産30万台体制を維持して快進撃を続けていったが、パーソナルコンピュータ元年となる翌1977年への年の変わり目を前後する時期から、需要は急成長を裏返したように急激にしぼみはじめた。

 ガソリンの供給に対する危機感が薄れたことに加え、CB用トランシーバーが急速に増大したことによる電波の混雑解消のために進められた、従来の23チャンネル用から40チャンネル用への切り替えが買い控えを招き、一気に値崩れを起こして業界はパニックに陥った。サイバネット工業は輸出用のカーステレオ市場に参入して生き残りを図ったが、最盛期には2600人を数えた従業員が、1979(昭和54)年には900人を切るまでに減った。

 サイバネット工業社長の友納は、同じく富士通出身で「京都セラミツク」の常務となっていた古橋隆之の仲介を得て稲盛に支援を申し入れた。それまで両社にいっさい業務上の関係はなかったが、創業者としての共感と稲盛の経営理念への信頼が、友納を京都セラミツクの懐に飛び込ませた。

 1979(昭和54)年秋に「京都セラミツク」の傘下に入ったサイバネット工業は、すでに着手していたオーディオ機器への進出を進めるとともに、富士ゼロックス向けの普通紙複写機のOEM生産にも手を染め、しだいに業績を回復していった。

 1980(昭和55)年を前後する時期、IC用パッケージという京都セラミツクの最大の収益源に陰りが見えはじめる中で、稲盛は新しい突破口を求めていた。

 その稲盛には、電子機器の製造設備を有するサイバネット工業という隠し玉があった。

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