互換ベーシックさえ作れれば日電版PCで勝負できる |
浜田の苦悩
富田倫生
2010/4/9
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
16ビット互換ベーシックの開発を西和彦に打診した段階では、浜田はいったん日本版のIBM PCに傾きかけていた。だが、西からの実質的な拒絶の返答は、浜田を再びやじろべえの安定状態に押し戻した。その一方で、渡辺和也の注文を全面的に受け入れた格好のIBM PCは、浜田の心の動きをあざ笑うように快進撃を続けていた。
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1982(昭和57)12月初頭、浜田は左右に2つの選択肢を抱えて立ちすくんでいた。その浜田をもう一度、最終的に傾かせたのは、あくまで「我が道を行こう」とする身内からの声だった。
マーケティングの浜田、ハードウエアの戸坂とともに、ソフトウエアの側から情報処理の16ビット機のイメージ固めに携わっていた担当者は、一貫して「超小型オフコンで臨む」という立場をとってきた。従来のソフトウエアを継承することはコンピュータ事業の鉄則であり、彼らが守るべき手持ちの資産はシステム100の上にこそあった。自力によらず、第三者による自発的な開発をあてにしてあらたな路線に踏み出すなど、ソフトウエアの専門家からすれば、あまりにも無謀な賭けに見えた。マイクロソフト側から互換ベーシックの開発を拒絶された時点で、従来路線の継承は実現可能性の面からもはずしようのない選択肢として浮かび上がっていた。身内の論議ではPC-8801の路線継承を主張する役割をになった浜田は、過去の経験則に沿った唯一実現可能性のあるプランとしてオフィスコンピュータの超小型版を推す声が勢いを増す中で、渡辺和也の断言が芽吹かせた懸念にこだわっていた。
過去の経験も、実現の可能性も、すべての常識はシステム100の路線継承を示唆していた。
だがもしも、マイクロコンピュータの上で起こりつつある変化がある種の革命であるならば、今日までの積み重ねの延長上に明日があるとは限らないと、浜田は考えた。とすれば、むしろ成すべきことのヒントは過去の常識を捨て去り、今、目の前で起こりつつある変化をあるがままに受け入れる中でしかつかめないのではないか。聞くとすれば唯一、市場からの声に従順に耳を傾けるしかないのではないか。
すでに数え切れないほどたどってきた、神経細胞に刻み込まれたこの思考回路の先に「市場はIBM PCを選んでいる」という結論と、「マイクロソフトからは互換ベーシックが調達できない」という結論の意味を喪失させる条件が控えていることを、薄く締めた唇を固く合わせながら浜田は噛みしめていた。
「計画どおり進めるしかないでしょう」
12月に入ってから、数度、繰り返してきた最終的な方針決定のための会議で、そうだめ押しされた瞬間、浜田の神経回路網を堂々めぐりしていたインパルスが、ふと脇道にそれた。
〈本当に道はないのだろうか〉
ソフトウエア担当者の声が遠くに消えていくのを感じながら、浜田は脳裏でそうつぶやいた。
「もちろん、まったくできないという話じゃありませんよね」
浜田から打診を受けた情報処理事業グループのソフト開発のベテランは、そう答えてから面を上げ、たずねるような視線を浜田に投げた。
「けれどできることなら、こんなことはマイクロソフトに頼んでもらった方がいいんですけどね」
日本電気に入社以来、ソフトウエア一筋に生きて来た古山良二がためらいがちにそう続けたとき、浜田俊三は思い切って急ブレーキをかけ、ハンドルを切りなおす覚悟を決めた。
計画どおりシステム100の超小型版で押し通すのなら、既存の組織の枠組みで充分対応できる。だがPC-8801の互換機を、マイクロソフトの協力なしで独力で開発するとなれば、プロジェクトを組織して可能な限りの強力なチームを作り上げ、全力で取り組むしかない。そう結論づけた浜田は、コンピュータ技術本部長となっていた小林亮と情報処理担当役員の石井善昭の承認を取り付け、急遽プロジェクトを立ち上げた。
1981(昭和56)年12月末、御用納めが目の前まで迫った時点で、浜田はほんの数人の中心となるスタッフを集めて、プロジェクトのキックオフを宣言するミーティングを持った。だが指名すべきサブリーダーの人選も進まぬまま、IBM PCの年は暮れた。
年明けそうそう、プロジェクトの本格始動に向けて奔走しはじめた浜田には、まだ1982(昭和57)年がどのような年になるのか、確信が持てなかった。
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