第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか |
1982 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発 |
裏の仕事
富田倫生
2010/4/13
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1981(昭和56)年10月にフィールドサポート部に移って間もなく、早水は小型システム事業部長代理の浜田俊三から「裏の仕事」を仰せつかった。
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財務と給与関連のアプリケーションの開発を促進するという本来の仕事を進める一方で、果たして日本ではパーソナルコンピュータ用にどんなアプリケーションが売り出されているのか、洗いざらい調べてみろというのが浜田からの指示だった。早水は計画部の平賀正豊と2人で年末商戦で賑わう秋葉原を歩き、PC-8001やシャープのMZ-80、日立のベーシックマスターなど8ビットの人気機種用のアプリケーションを片っ端から買い集めはじめた。
フィールドサポート部にとって、プログラムを買うことは日常の業務だった。ここでは、オフィスコンピュータに求められるだろうアプリケーションをソフトハウスに発注し、ソースコードごと権利のいっさいを買い取って、日本電気の提供するソフトウエアとしてユーザーに販売するのが常だった。ただ、ショップに出回っているパッケージソフトを求めるという今回の買い方は、異例だった。オブジェクトレベルのアプリケーションを1本ずつ、しかも合計何百万円も販売店から買い求めてくることの意味を納得してもらうために、早水は何度か経理のセクションに足を運ばざるをえなかった。
さらに浜田からは、開発中のBPC用に本格的なビジネスアプリケーションを書いてくれるソフトハウスの候補を選ぶ作業が加えて指示された。アメリカでパーソナルコンピュータの普及に猛烈な拍車をかけた表計算ソフトや、日本のソードが開発した表計算とデータベースを軸にさまざまな機能を組み合わせたピップスなど、幅広い作業のベースとなりうる一群のソフトウエアは、当時、簡易言語と呼ばれていた。
浜田の注文は、BPC用に簡易言語を書く力を持ったソフトハウスの発掘だった。
12月、早水は本業で付き合いのあるソフトハウスに加えて、パーソナルコンピュータ用にビジネスソフトを開発しているところを軒並み訪ね歩いた。情報処理部隊が16ビットのパーソナルコンピュータを開発していることは、極秘事項だった。だがフィールドサポート部に籍を置く早水には、いかにもオフィスコンピュータ用のプログラム開発を打診するかのようにして彼らを訪ねることができた。この年の7月に発表し、12月から出荷を始めたばかりのN5200用のアプリケーションをあわせて担当していたことも、カムフラージュには有利に働いた。
アプリケーション開発担当の子会社としてアスキーが設立したアスキーコンシューマープロダクツ、パーソナルメディア、管理工学研究所、大塚商会、パーソナルビジネスアシスト、東海クリエイトなどのソフトハウスを訪ねた早水は、「話題だけは先行している16ビットのパーソナルコンピュータには、本当に意味があるのだろうか」とたずねかけてみた。
これまでオフィスコンピュータ用で手堅くビジネスを続けてきたところの多くからは、積極的な声は聞けなかった。16ビットの可能性を検討する以前に、彼らは不特定多数の一般ユーザー向けに、売り上げに対する何の保証もなくアプリケーションを書くこと自体に関心を持っていなかった。これまでどおり、メーカーやディーラーの注文を受けて開発作業を請け負っている限り、少なくともかけた手間に見合った報酬を取りはぐれる恐れはなかった。だが一般向けに販売店を通して売り出すとなれば、それこそほとんど売れないといった事態も覚悟せざるをえなかった。リスクを承知で乗り出していくほどこの市場が可能性を秘めているのかと問われたとき、オフィスコンピュータを根城にしてきたソフトハウスの大半は首をひねって見せた。
だが彼らの一部には、少数ながらはっきりとここに狙いを定めているところがあった。さらに8ビットのパーソナルコンピュータをターゲットに会社を起こした新しい小さなところは、例外なく16ビットへの期待を表明した。
ソフトハウス行脚を続ける中で、早水は彼らの力量と16ビットへの関心とを推し量っていった。
だがこの作業を続ける中で、早水の胸の奥でしだいに懸念の芽が頭をもたげはじめた。
具体的な話はいっさい控えたものの、「16ビットに意味はあるだろうか」とたずねれば、答える側は当然のように日本電気の16ビット機を頭に描いてから答えを用意した。
沖電気が究極の8ビットを狙って送り出してきた高機能機、if800用に開発を行っていたCSKの白土良一は、早水からそう水を向けられると即座に「PC-8801と互換性をとらなければまずいですよ」と断言した。日本電気が16ビットのパーソナルコンピュータを開発することには大きな意味がある。ただしそのマシンの第一の役割は、「速いPC-8801であることだ」と白土は指摘した。
当時アスキーコンシューマープロダクツに籍を置いていた那須勇次は、「周辺機器をつなぐコネクターはPC-8001やPC-8801のものと同じでないとまずい」と、従来の8ビット機との互換性を別の角度から指摘した。個人ユーザーにとって、処理速度を高めたマシンの本体だけを買ってきて従来のシステムにはめ込むことができれば、新しい機種への移行の敷居はずいぶん低くなる。そのためにはコンポーネント方式を採用してコネクターは従来のものとそろえ、これまでの周辺機器をそのまま使えるようにするべきだろう。那須にそう指摘されたとき、開発中の超小型オフィスコンピュータのメリットを表立って主張できない早水は、「あんないい加減なコネクターでいいんですかね」と言い返すしかできなかった。
年明けそうそうの1982(昭和57)年1月12日、早水と平賀は連名で「BPC用簡易言語の開発ソフトハウス候補予備調査」と題した報告書を浜田に提出した。
ソフトハウスの一部から「求められているのはPC-8001とPC-8801との互換性を持った16ビット機」と指摘されたとの早水の報告を、浜田は素早く目の端で追った。
従来路線に沿ったBPCの開発計画とは別個に、PC-8801の16ビット版プロジェクトをあらたにスタートさせたばかりの浜田にとって、早水の報告は、たくまざる賛同の拍手だった。
だが浜田には、外部からの支援の声に耳を遊ばせている余裕はなかった。新プロジェクトは実質的にはいまだまったく動きだしておらず、時間は決定的に不足していた。
前年の10月7日から12日までの6日間、大阪見本市・港会場で開かれたエレクトロニクスショーと、10月20日から4日間、東京晴海の国際貿易センターで開かれたデータショウに、三菱電機は16ビットのパーソナルコンピュータを参考出品して注目を集めていた。
IBM PCと同様8088を採用したこの機種を、三菱電機はCP/Mマシンと位置づけていた。
CP/M-86上で動くコボルやフォートランを提供することによって、これまでミニコンピュータやオフィスコンピュータ用にこれらの高級言語で書かれてきたアプリケーションを容易に移植できることを、三菱電機はこのマシンの強みとして打ち出していた★。
★のちにマルチ16と名付けられるこのマシンは、5インチのディスクドライブを標準で備え、OSの他にディスクベーシックもフロッピーから読み込んで使えるようになっていた。 マイクロソフトはIBMがPCのプロジェクトを持ちかける以前、インテルが初めての16ビット・マイクロコンピュータ8086を発表して間もない1978年秋から、これに対応したベーシックの開発を進めていた。翌1979年6月にニューヨークで開かれた全米コンピュータ会議(NCC)で、マイクロソフトはベーシック8086の発表を行った。日本の16ビット機としてはもっとも早く開発計画がスタートしたマルチ16には、これを拡張したM-BASICが移植されていた。ただし三菱電機は、CP/M-86に対応させたさまざまな言語や各業種業務用のアプリケーション、大型の端末として使うためエミュレーションソフトなどをマルチ16の売り物として前面に推し出していた。 |
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