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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

もう1人の電子少年、伊勢崎に生まれる

富田倫生
2010/6/7

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

もう1人の電子少年
伊勢崎に生まれる

 スティーブ・ウォズニアックに遅れること3年2カ月、松本吉彦は1953(昭和28)年10月に群馬県伊勢崎市に生まれた。

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 父の松本庄八は、太平洋戦争末期、予科練を経て特別攻撃隊に編成されていた。爆薬を積み込んだ木製のボートに乗り込み、敵艦への体当たりを目指す震洋の基地で敗戦を迎えた翌日、仲間たちの多くが爆発事故で命を落とした。

 復員した松本庄八は、戦争を超えた世界の建設に夢を抱いた。志を共有する仲間たちと群馬県下でグループを作り、世界的な世界連邦運動に共鳴して動きはじめた。その一方でボーイスカウトの隊長を引き受け、子供会を組織して、童話の朗読会や唱歌指導、幻燈会などの催しで県下の町村を回った。

 織物の町の伊勢崎で、松本家は曾祖父の代から染色に携わってきた。庄八も染め物の腕を持っていたが、繊維不況の中で吉彦が5歳になるころ、布団屋を営むようになった。ただしそれ以前も以降も、松本庄八はまず第一に、社会活動家だった。

 父の携わる活動や、織物の町の伊勢崎に、松本吉彦を電気に向かわせる何かがあったわけではなかった。松本をエレクトロニクスに引き寄せたのは、近所の子供たちのリーダーとなっていた中学生だった。地元の小学校に上がって間もないころから、松本は「まあちゃん」と呼んでいた6つ年上の中島正敏の手ほどきを受けて、工作に取り組むようになった。

 電気にめっぽう詳しく、何を聞いても新しい世界の扉を開くような答えを返してくれたまあちゃんは、あたりの小学生たちの尊敬を一身に集める存在だった。まあちゃんの家の隣にはラジオ屋があり、この店で捨てられるジャンクはもっぱら彼の部品供給源となっていた。やがて年下の小学生のあいだでも、彼の指導のもとにラジオ作りを試みるのがはやりはじめた。

 松本は工作グループの中では最年少だったが、熱中の度合いは一番だった。簡単な鉱石ラジオの組み立てには飽き足らず、小学校2年のころからは、まあちゃんの手ほどきを受けて真空管式のラジオ作りに取り組むようになった。雑誌や解説書に目を通し、電波通信を成り立たせている仕組みが理解できるようになると、ラジオ作りはますます面白くなってきた。真空管やコンデンサー、抵抗など1つ1つの部品の働きを知り、各々の部品が結びつく必然性に納得がいきはじめると、ラジオはまるで精緻な生き物のように思えてきた。部品をかき集めて一からラジオを組み立てていく作業に、松本は命ある世界を自らの手で作り上げていく創造の神となったような、しびれるような快感を見いだした。

 小学校3年でついに並三ラジオを完成させたときには、繰り返し繰り返し胸の底からこみ上げてくる喜びに、松本は自我の根を震わせた。

 エレクトロニクスの精緻な世界が、そのとき松本自身によって命を吹き込まれ、目の前で息づきはじめていた。その後も手作りのラジオに電源を入れるたびに、松本は無機物の回路に命を吹き込むことの喜びを、番組を聞き流しながら確認することができた。手作りの並三ラジオで聴く限り、ラジオ放送はもう単なる放送ではなかった。流れ出てくる音声は、自らがエレクトロニクスの世界を理解し、電気仕掛けの生命をこの手で作り上げたことを証すファンファーレだった。

 松本はやがて、アマチュア無線の専門誌『CQ ham radio』を読むようになった。

 エレクトロニクスのマニアにとって、受信機や送信機をさまざまに工夫して作り上げ、実際に電波を飛ばして作品を使ってみることのできるアマチュア無線は、腕を鍛え、新しい挑戦に打って出る格好の土俵だった。松本自身、無線電話で見知らぬ人と話すことには興味が湧かなかったが、免許を取って手作りの通信機器を実際に機能させることには、すぐにでも挑戦してみたくなった。参考書で勉強して小学校6年で受験してみると、初めての挑戦で免許が取れた。

 進学した地元の豊受中学校には、アマチュア無線のサークルはなかった。松本は科学クラブに所属したが、ここもメンバーは少なく、予算もほとんどついていなかった。2年生になって部長を名乗ることになり、活動らしい活動をやっていなかったクラブを建てなおそうと考えた松本は、予算獲得作戦の一環として、読売新聞社の主催する学生科学賞に応募した。

 応募作品のテーマには、SF小説の中で出会った「地中通信」技術を選んだ。

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