第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず |
1980 もう1人の電子少年の復活 |
アナログからデジタルへの跳躍
富田倫生
2010/6/11
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
これまで慣れ親しんできたアナログのエレクトロニクスの世界は、松本には、音楽が生まれるプロセスに似通っているように思えた。
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美しい音楽が生まれる原点には誰かの手による作曲の工程があるように、電子機器の誕生の出発点にも新しい回路の発明がある。編曲に相当するのは、基本設計。ここで定められた基本方針に沿って、各楽器のパート譜を書いていくオーケストレーションに相当するのが、回路設計だろう。そこから指揮者がタクトを手にするように、松本たちははんだごてを握る。リハーサルに相当する回路別の実験があり、演奏が実際の製作に相当する。
小学生で並三ラジオに挑んだときはリハーサルからの参加だったが、テレビカメラでは編曲の基本設計にも踏み込んだ。さらにアナログの機器に関しては、松本は原点の回路の考案から取り組んだ経験も積んでいた。
だがあらかじめ回路を半導体上に作り付けてある出来合いのICを使うとなると、松本が関与できるステップは、大幅に制限された。集積度が高まるにつれて回路のより広い範囲がチップに収まれば収まるほど、リハーサルと演奏に相当する創造性をほとんど問われない作業にしか関与できなくなるように思えた。
最終的に電子機器を安く、小さく仕上げるといううえでは、集積回路は絶大な威力を発揮する。童心に返って並三ラジオを組み立てるつもりで臨めば、かなり使いものになる機器が簡単に作れるようになるだろう。だが作ること自体を楽しむマニアにとって、回路の大半をブラックボックス化してしまう集積回路の急成長が果たして幸せをもたらすものなのか、松本には判断がつかなかった。
1973(昭和48)年4月、松本は東京電機大学工学部電子工学科の第2部に入学した。両親の期待と自分自身の居所を定める妥協の産物でしかなかった大学は、秋葉原にもっとも近いという1点で選んだ。
試験会場で席を並べることになった受験生が最後の追い込みにかかっていたこの年のはじめ、松本は『CQ ham radio』の兄弟誌にあたる『トランジスタ技術』の2月号で、新しい集積回路の紹介記事を読んでいた。「ミニコンがICになった!」と題された記事によれば、アメリカのインテルという半導体メーカーが、コンピュータのCPUを1つの集積回路上に収めた製品を供給しはじめたという。具体的には4ビットの4004と8ビットの8008という2つのタイプがあり、幅広い応用が期待される、と記事は結んでいた。
だがエレクトロニクスの世界の新しい話題には、鉄片が磁石に吸い寄せられるように食らいつく松本が、初めて出会ったマイクロコンピュータのニュースにはむしろ、小さな恐れの入りまじった、腰の据わりの悪い違和感を覚えた。
集積回路はすでに、ミニコンピュータの頭脳に相当する回路までをブラックボックス化してしまったという。アナログ1本でここまで来た自分がコンピュータを支えるデジタル技術を消化しないうちに、半導体産業は、指先の及ばない集積回路の中にCPUを閉じ込めた。いずれはデジタルの世界に本格的に踏み込もうと考えていた松本は、飛び越えようと身構えた溝に急に丈の高い壁をしつらえられたような感覚に襲われた。
セラミックパッケージの鎧をかぶったマイクロコンピュータは、松本の解剖の手が及ぶのを拒否しているように見えた。
秋葉原通いの寄り道先が予備校から大学に変わったのを機会に、松本はかねてから胸にためてきたライターへの挑戦を実行に移そうと考えた。
テレビカメラ完成の報告の手紙が『CQ ham radio』の誌面を飾ることになったとき、松本は並三ラジオにも、初めてテレビ画面に浮かび上がった画像にも感じることのなかった、手触りの異なる喜びを味わった。発売日を待ちかねて雑誌を書店の店先で開くと、目次にはなかったが、「ハム随想」と題した各地のアマチュア無線家からの手紙の欄に自分の名前があった。紙質の悪い『CQ ham radio』の誌面から、印刷された名前は磨きをかけられて浮き上がってくるように見えた。
大学に入って間もなく、手紙の1件で連絡をとり合ったことのあるCQ出版の編集者を訪ね、製作記事を書かせてもらえないかと頼み込んでみた。実際に書いたものが水準に達していればとの答えをもらい、夏から製作と原稿書きに集中して取り組んだ。
テーマには完成品を買えば当時数十万円はしていた、電圧、電流、抵抗を測ることのできるデジタル式のマルチメーターを選んだ。さまざまな電子機器がデジタル化されはじめる中で、松本にはアナログの世界からいつかはデジタルにジャンプしない限り、エレクトロニクスの先端から置いていかれるとの思いが募っていた。多くの読者もまたデジタルの島の急速な拡大に戸惑いを感じながら、不安を乗り越えて新しい世界に飛び移るチャンスを求めているのではないか。そう考えた松本は、自分を含むアマチュアにとって、アナログとデジタルの技術的特質を整理する機会としたいと考えて、このテーマを選んだ。
9月に入って書き上げた原稿と図版を手渡すと、編集者は掲載を請け負い、電卓用ICを使った計算機の製作記事を書かないかと、次のテーマまで与えてくれた。
松本の初めての記事は、1973(昭和58)年12月号の『トランジスタ技術』に掲載された。
書店で買った『トランジスタ技術』の目次から立ち上がって見える自分の名前に、松本は胸を熱くした。CQ出版から掲載誌が送られてくると、もう1度目次と本文を開いて名前を確かめてみた。翌年の同誌2月号には、2つ目の記事が載った。2冊目の掲載紙が送られてくるのと前後して、初めての記事の原稿料が振り込まれると、松本は原稿を書くという作業に対価が支払われるのだという事情をあらためて実感した。
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