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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

マイクロコンピュータの中身を探る連載

富田倫生
2010/6/16

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 当初『トランジスタ技術』がほとんど唯一のニュースソースだったマイクロコンピュータに関する情報は、さまざまな雑誌の誌面を飾りはじめていた。

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 だが中身にはいっさい触れようとせず、美辞麗句を連ねてマイクロコンピュータの素晴らしさを謳い上げたり、表に現われている機能だけを気まぐれにつまみ食いしたような記事ばかりが増えるのが気になった。中身が覗きにくいから覗かない。覗けないからいじらないの繰り返しでは、かつて自分自身がコンピュータに抱いていた、「わけの分からない特殊なもの」といったイメージが広まってしまうのではないか。デジタルICの一種として冷静に学んでいけばよいものを、おどろおどろしいブラックボックスに仕立ててしまうのではないかと思えてならなかった。自分自身にとっても多くのエレクトロニクスマニアにとっても、ここでいったんマイクロコンピュータのイメージにリセットをかけ、一から冷静に学びなおしてみる意義は大きいと考えた。

 『トランジスタ技術』の編集者には、思い切って大連載のプランを持ちかけた。

 教材にはモトローラの新しい8ビットのマイクロコンピュータ、6800を使う。まずはコンピュータの基本的な仕組みから説き明かし、その構造が6800でどう実現されているかを分析する。そして最終的には、これを利用したシステムの製作へと導いていく。各社からさまざまなタイプが製品化される中でも、インテルの8080が主流となっていることは当然承知していた。だが、最少の外部回路でシステムを組むことができて命令の体系が整理されており、単一の5ボルト電源だけで動かせてしかも壊れにくい6800は、教材としてよりふさわしいように思えた。DECのPDP-11をお手本にしたコンピュータらしい構造の6800を学んでから見なおせば、電卓の部品から育ってきた8080の氏と育ちがよく見えるだろうと考えた。

 「本腰を入れてこれだけのテーマをカバーするとなると、1回に図版抜きで50〜60枚書くとしても、10回は連載が必要だろう」

 そう持ちかけると、あまりの話の大きさに編集者は頭を抱え込んでしまった。だが、最終的には「3回分原稿を書きためたら始めよう」と乗ってくれた。

 4年生に進級した直後から原稿書きに集中し、『トランジスタ技術』の1976(昭和51)年8月号から、「わかるマイクロコンピュータ・セミナー」の連載を始めることができた。

 1回の原稿量60枚と図版の準備はかなりの作業となったが、記事が出はじめると読者からのすさまじい反響が松本の多忙さに拍車をかけた。励ましや問い合わせの手紙が毎月50通ほども届き、取りあえず質問に答えるだけでも大きな時間を食われた。

 おまけに編集部経由で、松本にはさまざまな仕事の依頼が飛び込んでくるようになった。

 ある小さな計測器メーカーは、機器のコントローラーをマイクロコンピュータを使って作ってほしい旨、松本先生に打診してほしいと編集部に丁重に連絡を入れてきた。

 「出世したもんだね」と編集者に冷やかされ、大学教授かなにかを予想していたらしい先方に連絡をとってみた。現われた長髪の学生にどんな反応を見せるか楽しみに出かけたが、突っ込んだ話に入ると先方はすぐに膝を乗り出してきた。何に使いたかったのか、ちょうどアルテアのような形でシステムを組んでほしいという注文が1つ。その後も松本先生には、つぎつぎと開発の依頼が飛び込んできた。

 マイクロコンピュータは、波に乗っていた。


 連載を開始した直後、松本は安田助教授の部屋で、「これがあのTK-80を作った人だ」と日本電気の社員を紹介された。半導体部門でマイクロコンピュータの販売を担当しているという後藤富雄は、安田が『コンピュートピア』に連載を始めた直後からしばしば研究室を訪ねるようになっていた。8月にキット式のTK-80を売り出したばかりの後藤たちは、9月には秋葉原のラジオ会館にNECビット・インというサービスルームを開き、TK-80に関する相談や修理に応じる体制を組んでいくということだった。

 マイクロコンピュータに関心を持った人たちが、まず手始めに取り組んでみるキットとしては、TK-80は価格の面でも、機能に関しても、じつにバランスのとれた製品に仕上がっていた★。

 ★MITSのアルテアは、日本では輸入代理店となったIEEコーポレーションから28万5000円で売り出されており、完成品には39万円の値段がついていた。日本のホビイストにとって、アルテアはなにぶん高嶺の花だった。

 アルテアが1975(昭和50)年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』の誌面を飾ってからおよそ半年後のこの年の夏、インテルは8080を使ったキット、SDK-80を売り出した。システム・ディベロップメント・キットを略してSDKと名付けられたこの製品は、むき出しの基板を組み立てる仕立てだったが、日本での発売元となったパネトロンはこれを13万2000円とアルテアの半額以下に価格設定した。

 一方モトローラもこの夏、インテルを追って同じく基板を組み立てる形式のM6800を売り出した。モトローラ・セミコンダクターズ・ジャパンは、6800にRAMとROM、周辺装置制御用のLSIを加えた一式をMPUキットと名付け、5万円とした。このキットには1万5000円のプリント基板が含まれておらず、完成にはこれも別売の7500円の周辺ICセットが必要だったが、合計でもモトローラのキットは7万2500円で収まった。

 アメリカではアルテアが話題を独占していたが、日本での人気は比較的安価なSDK-80やM6800に集まっていた。ただしこの2つのどちらを買ってきたユーザーも、組み立て終わっていざ動かそうとなった段階で、あらたな壁に直面することになった。2つのキットとも、ROMに収めて供給されるモニターは、システムをテレタイプで使うことを前提として書かれていた。たとえキットは低価格でも、テレタイプのASR33の値段は65万円を超えていた。結果的に組み立てられたキットの多くは、飾り物に終わる結果となった。

 だが1976(昭和51)年に入って間もなく、モステクノロジーが自社の6502を使って売り出した組み立てキットKIM-1は、テレタイプの壁を打ち破っていた。KIM-1には16進の簡単なキーボードと、日の字型のLEDの表示装置が2つ組み込まれていた。ユーザーはこのキーボードからプログラムを入力し、LEDで処理の結果を確認することができた。日本での販売価格は、11万9000円。電源は別に用意しなければならなかったが、KIM-1はアルテアと同様にそれ自体で完結して動かせるシステムに仕上がっていた。

 日本電気のTK-80は、このKIM-1の流れを汲みながら、使い勝手をよりいっそう高めていた。

 16進のキーボードに加え、TK-80は日の字型のLEDを8個持っており、そのうちの4つでアドレスを、残りの4つでデータを表示する形をとっていた。KIM-1が持っていたカセットテープレコーダーのインターフェイスは、ユーザーの手作りにまかせて回路図をマニュアルに示すにとどめられていたが、TK-80の価格は8万8500円に抑えられていた。

 後藤を紹介してくれた安田は、TK-80が組み立てキットの決定版となり、日本の各社によるキット製品開発の呼び水となって、ブームにいっそうの拍車をかけることになるだろうと読んでいた。

 事実『トランジスタ技術』の連載記事は単発の開発依頼にとどまらず、松本に大手電機メーカーからのフルタイムの就職口も運んできた。

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