第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず |
1980 もう1人の電子少年の復活 |
「ちっぽけコンピュータ社」
富田倫生
2010/6/23
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
タイニーベーシックは大きな需要の望めるソフトウェアだったが、8080用には、すでに選択肢があった。ピットマンは代わりに、6800をターゲットに選んだ。オリジナルのダートマス版の仕様にあたり、『DDJ』の記事を参考にして使えるステートメントを12個に絞った。16進の整数演算のみで、アルファベット1文字の変数名を26個使用でき、配列、文字列はなし。ただしユーザーの要求に沿った機能拡張に備えて、機械語サブルーチンの呼び出し機能を付けると仕様を決めたあとは、一気呵成(かせい)に書き進んでいった。
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ハッカーがときに発揮するすさまじい集中力に、ピットマンの妻はこれまでも不当に遺棄されているとの反発を覚えてきた。ピットマンは数週間で6800用の初めてのタイニーベーシックを書き上げたが、代わりに妻を失った。
インタープリターを書き上げたピットマンは、続いてユーザーがこのソフトウェアの機能を十分に理解し、自分のマシンや使用する目的に応じて手直しできるよう、ていねいで分かりやすいマニュアルを書く作業に移った。プログラミングを職業としてきたピットマンは、技術資料を整備することの重要性をこれまでも繰り返し体験していた。
インタープリターとマニュアルをそろえたピットマンは、6800を使った基板を作っていたAMI社とまず交渉して、3500ドルで彼らのマシンへの使用権を与えた。開発の動機は、充分に安いソフトウェアへのホビイストの振る舞いを確認することだったが、ピットマンはプロである自分の作業時間にまったく見返りが得られない事態を受け入れるつもりはなかった。普段の自分のレートからすればAMIの報酬はかなり低かったが、この契約で最低限のリスク回避は果たされた。
充分に脇を固めてから、ピットマンは実験に取りかかった。1本あたり5ドルを送ってくれれば、紙テープに収めた機械語のプログラムとマニュアルを郵送するという広告を『バイト』に出すと、すぐに注文が集まりはじめた。5ドルでは安すぎるからと10ドルを送ってくる者があり、すでに友人からコピーさせてもらったから郵送の必要はないとして料金だけを送ってくる者もいた。
ピットマンはしだいに、「自分は賭けに勝った」と考えるようになった。
ピットマンのタイニーベーシックの評判は高く、ことに懇切丁寧な26ページのマニュアルは賞賛をもって迎えられた。ただし彼がソースコードを公開しなかった点には、クレームもあった。
カンザス州に住むデビッド・アレンは、公開されていない点がピットマンのタイニーベーシックに関する唯一の不満であるとの手紙を『DDJ』の編集部に送った。編集部から手紙を見せられたピットマンは、「AMIとの契約は独占的なものではなかったけれど、開発の条件を整えてくれた彼らの投資の価値を減じさせるような振る舞いはフェアーではないと考え、ソースリストの公開は控えている」と答えた。2人の手紙が1976年6/7月号の『DDJ』に掲載された時点では、ピットマンは今後自分の書いたものに関してはソースリストを公開しようかとも考えていた。だがコンサルタント業ではしっかり稼ぎながら、もう一方で自分のプログラムを公開することを、ピットマンは「やはり不健全だろう」と結論づけた。むしろなすべきは、ソフトウェアの空白を埋めるプラスの循環を、より積極的に確立することだとピットマンは腹を固めた。
パーソナルコンピュータ向けに、質の高い低価格のソフトウェアを提供することを目指して、トム・ピットマンは「ちっぽけコンピュータ社(Itty Bitty Computers)」を名乗って初めての商品であるタイニーベーシックの販売を本格化することを決意した。
同じ6800を使ったマシンでも、ハードウェアの作り方によってはタイニーベーシックの一部を手直しする必要があった。当初そうした作業はユーザーに任せていたが、ちっぽけコンピュータを設立するからにはと、代表的な機種に合わせていくつかのバージョンを用意することにした。6800を改良してモステクノロジーの開発した6502にも、対応することを決めた。モステクノロジー自身が6502を使って作り、たちまち人気沸騰となったキット式のKIM-1用を準備し、ホームブルー・コンピュータ・クラブの有名人であるスティーブ・ウォズニアックが作ったアップルI 用もそろえた。
『DDJ』のジム・ウォーレンは、手作りと共有という自分たちの路線と異なってはいても、低価格の質の高いソフトウェアの供給を目指すというピットマンの試みに共感を覚えた。1976年10月号で、ちっぽけコンピュータの誕生を大きく報じたウォーレンは、わずか5ドルで提供されるタイニーベーシックの各バージョンを記事で紹介してくれた。
ハードウェアベンダー向けのOEMメーカーとしてスタートしたマイクロソフトに対し、ピットマンは一般ユーザー向けのソフトウェア販売を目指した。ピットマン自身も、OEM路線を選んでソフトウェアのコストをハードウェアの値段に組み込んでしまう手もあるとは考えた。ただしこの道を選んで最低限元をとろうとすれば、OEM先の想定販売台数でソフトウェアの開発費を割った分をマシンの価格に上乗せし、しかも他社製品よりその分割高になったものを売り切ってもらわなければならなかった。
だがピットマンには、ハードウェアがよほど際だった特長を持っているか、ほかのマシンではけっして使うことのできないソフトウェアがバンドルされてでもいない限り、割高のマシンが売れるとは思えなかった。ピットマンは、特定の会社の特定の機械だけでソフトウェアの開発費用を回収することは難しいと考えた。そこで独立したソフトウェアの会社を起こし、手作りされたものも含めてさまざまな会社のさまざまなマシン相手に商売する方が賢明だろうと結論づけた。
だがちっぽけコンピュータを設立したピットマンはすぐに、この道にも大きな障害が待ち受けていることを思い知らされた。
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