第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず |
1980 もう1人の電子少年の復活 |
ベーシックの標準、OSの標準
富田倫生
2010/6/25
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
「メーカーへの公開状」を書いたトム・ピットマンは、すぐれたソフトウェアが安く提供される環境を目指して互換性の必要性を訴えた。せめて同じマイクロコンピュータを使っているのなら、同じ機械語のプログラムが異なったシステムでそのまま使えるようにモニターの作り方に留意するように求めた。
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これからは何らかの明確な目的を持ってパーソナルコンピュータを使う時代がくる。力点がプログラムの利用に移るその時代の鍵は、マイクロソフトのベーシックとCP/Mが握るだろうと直感した時点で、西和彦がつかみ取っていたキーワードも、互換性だった。
ピットマンは機械語レベルでの互換性のために、モニターに注文をつけた。だが階層を1つずらせば、マイクロコンピュータの壁を越えたレベルでも互換性を想定できた。6800なり8080なりを使ったシステムに同じ文法のベーシックを、たとえばマイクロソフトならマイクロソフトのベーシックを移植してやれば、あとは同じプログラムを双方のマシンで利用できるはずだった。
さらにCP/MというOSを使えば、言語の壁を越えることも可能だった。完成品のパーソナルコンピュータはベーシックのインタープリターをROMに収め、もっぱらこの言語だけを使うよう仕立てられている。だがCP/Mをまず読み込んでから使う形をとれば、これに対応した言語なら、フォートランであれコボルであれ、何を使って書いたプログラムでも自由に動かせるはずだった。
マイクロソフトのベーシックとCP/Mを日本の標準としようと考えた時点で、西はピットマンと同じ未来を見ていた。
ライバルの存在しないCP/Mに関しては、松本もいずれこのOSが互換性の基盤になると考えた。
だがベーシックには、あまりにも選択肢が多すぎるように思えた。パーソナルコンピュータの商品化に取り組んでいる日本のメーカーは、あらたにベーシックを書き起こす力も持っていた。
1977(昭和52)年4月に千葉大学工学部電子工学科から日本電気に入社し、マイクロコンピュータ販売部に配属された土岐泰之は、アメリカ西海岸で吹きはじめた風にいち早く反応した1人だった。
大学時代からマイクロコンピュータを使ったシステムの手作りに熱中していた土岐は、『DDJ』を知ってすぐに定期購読の手続きをとった。西海岸で巻き起こった個人の道具としてコンピュータを使おうとする運動に呼応して、土岐は学生時代から、タイニーベーシックやさまざまなインターフェイスの開発に取り組んでいた。入社直後からは、これまで趣味として熱中してきた作業を、発売されたばかりのTK-80を拡張する仕事として行うことになった。『DDJ』で公開されていたパロアルト版を参考に、土岐が機能を強化した2Kバイトほどのインタープリターを搭載して、TK-80BSが売り出された。コンポBSには、LEVEL-2 BASICと名付けたこのインタープリターをそのまま採用したが、マイクロコンピュータ販売部では本格的なパーソナルコンピュータを目指して、より幅広い機能を持たせ、処理速度を高めたものの開発を進めていた。
彼らは自分たちのベーシックに、自信を持っていた。
1978(昭和53)年5月、日立の家電事業部はベーシックマスター・レベルI を発表し、松本がアスキーマイクロソフトに籍を置いた10月からはすでに発売を開始していた。このマシンに搭載されたベーシックは、同社の家電研究所のスタッフによって書かれた。マイクロソフトのものが計算の精度を有効桁8桁に抑えて処理速度を稼いでいたのに対し、家電研究所のベーシックは有効桁数を大きくとって本格的な計算処理の用途に対応しようとしていた。
マイクロソフトのベーシックを売り込む立場で後藤富雄や加藤明や土岐泰之たちと向き合うことになった松本は、内心ではむしろ彼らの側に傾いてしまっていた。ベンチマークテストをやってみると、彼らのベーシックはマイクロソフトのものに勝っていた。もしも自分が同じ立場にあれば、当然自分たちのものを選ぶだろうと松本は考えた。マイクロソフトのものに限らず他のベーシックにすぐれた特長があったとすれば、参考にして取り入れていけばいいだけの話としか思えなかった。
その強力な選択肢を持つ日本電気に、〈標準〉のメリットを押したててついにはマイクロソフトのものを売りつけてしまった西の手並みには、あらためてほとほと感服させられた。
1979(昭和54)年4月、自社製とマイクロソフト製の2つの選択肢を次期マシンの候補として検討してきたマイクロコンピュータ販売部は、最終的にマイクロソフトを選ぶことを決めた。
アルテアのバスがS-100業界標準として機能し、さまざまなボードが生まれる中で、パーソナルコンピュータの生態系全体が急速に成長するのを見てきた西和彦は、ベーシックの標準、OSの標準の可能性を確信していた。手作りのさまざまなタイニーベーシックから、規模を拡張したものでもいくつかのライバルがひしめく中で、アメリカ市場ではマイクロソフトが勝ち上がってきた。その事実と彼らの勢いを、渡辺和也はとろうと考えた。
5月9日、日本電気は「最大32Kバイトの大容量のROMに書き込んだマイクロソフト系のベーシック」を売り物とした、新しいパーソナルコンピュータを8月から発売すると発表した。
1週間後、東京流通センターで開かれたマイクロコンピュータショーに出展されたPC-8001には、黒山の人だかりができた。
〈もうマイクロコンピュータ狂いもここまでかな〉
松本吉彦がマイクロコンピュータに飽きはじめている自分にはっきり気付いたのは、発表されたばかりのPC-8001がショーの人気を集め、各誌でつぎつぎと大きく特集されはじめたまさにその時期だった。アメリカで標準となったマイクロソフトのベーシックをいち早く搭載した点は、PC-8001の大きな売り物と好意的に受けとめられており、CP/Mもこの時期、販路を開きはじめていた。だが日本市場に売り込みを図っていた当の本人は、形となって現われはじめた成果にむしろ戸惑いを覚えていた。
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