第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う |
1983 PC-100の早すぎた誕生と死 |
柔らかなコンピュータ技術
富田倫生
2010/7/8
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1982(昭和57)年5月、西和彦が持ち込んだ2つの未来志向のプロジェクトを、日本電気は6月に入ってすぐに正式に受け入れた。
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タンディとの交渉が先行して進められていたハンドヘルドコンピュータの開発作業は、西からの申し入れがあった時点ですでにあらかたのめどがついていた。サイバネット工業の伊勢工場では、同社への製品供給が本決まりとなった時点から、量産化に向けてラインの整備が進められていた。
もう一方、ゼロからのスタートとなるアルトの子供の開発計画は、TRON★と名付けられた。
★同じくTRONを名乗るプロジェクトには、東京大学の坂村健の推し進める、マイクロコンピュータ環境の包括的統合計画がある。両プロジェクトがこう呼ばれるきっかけとなったのは、ディズニープロダクション制作の映画『トロン』だった。1982年に公開されたこの作品は、コンピュータグラフィックスを大幅に用いたことで当時話題を呼んだ。坂村のTRONプロジェクトは、1984(昭和59)年6月にスタートするが、もしもPC-100として発表されるこのマシンの開発コードネームがすっぱぬかれていたら、あの構想はなんと呼ばれていただろう。TRONの理念に多くを教えられ、これに深く共感する著者は、あのプロジェクトに関して「もし……だったら」と思い返す点が多い。TRONという鏡にうつせば日本がよく見える。 |
TRONをどう仕立てるかを決める仕様検討は、プロジェクトにゴーサインが出た直後の6月初旬から開始された。叩き台となるプランを提出する立場の京都セラミツク、アスキー側にあって、実作業をになったのはマイクロハードだった。
松本吉彦にとって、アルトの子供を生み出す作業は、これまでも繰り返しこなしてきたマシンの開発作業とは決定的に異なる何かを持っていた。
TRONへの挑戦は、松本にとって、自分自身の心の拠りどころを求める旅だった。
作ることの喜びにせき立てられてエレクトロニクスの世界を存分に駆け回ってきた松本は、マイクロコンピュータと出合って天分をフォーカスさせ、時代の先端に躍り出るチャンスをつかんだ。だが熱狂の一時期が過ぎ、パーソナルコンピュータが既存のコンピュータの世界からさまざまな技術を借り受けてまともな道具に生まれ変わっていく中で、松本は創造の胸の高鳴りをこの世界に感じられなくなっていった。
そんな松本を再びパーソナルコンピュータに引き寄せたのは、ビジカルクだった。
操作すればリアルタイムですぐに反応を返し、対話型の操作を基本とするビジカルクは、コンピュータを1人ひとりの人間の手に委ねることによって初めて生まれえた、人の肌合いに沿ったソフトウェアと松本の目に映った。
ビジカルクには、大型からの借り物ではない本当の新しさがあった。
真に創造的な何かを、パーソナルコンピュータは生み出すことができるだろう――。ビジカルク越しに抱いたこの期待は、1980(昭和55)年の夏、ソニーの上司だった服部善次から「パーソナル・ダイナミック・メディア」の論文のコピーをもらって読んだとき、松本の胸の奥で揺るぎない確信に変わっていった。
マイクロコンピュータによってチャンスを与えられたとき、電子計算機の発展の歴史とは断絶したところで、個人のてのひらの上からもう1つの道筋をゼロからつけはじめたことには、やはり意味があったのだ。
生まれ落ちたパーソナルコンピュータは確かに、大型からベーシックを引き取って養分とし、ミニコンピュータのOSをまねたCP/Mで這いはじめ、フロッピーディスクやハードディスクを与えられて立ち上がることを覚えてきた。だがビジカルクとアラン・ケイの論文は、国家や企業の枠組みの中で電子計算機を発展させている限りけっして前面に躍り出ることはなかっただろう、独立した1個の人格に奉仕するコンピュータの姿をあざやかに描き出していた。
立ち上がったパーソナルコンピュータが、自分自身の足で向かうべき新世界への道筋を、ビジカルクとダイナブックは指し示していた。
計算にはきわめて弱く、認識の細部に関しては曖昧で不確かではあるにしても、直感的なイメージで全体像を把握することには、人は驚異的な力を持つ。こうした人間相手には、数値の正確さや厳密な文法で支配するのではない、柔らかなコンピュータ技術がありうる。情報を視覚的に表現し、一瞬の閃きによって下される操作に即座に反応を返し、マシンと人とが相互に意思を確かめ合いながら物事を進める世界が成り立ちうる。
しかしそうした世界を現実に築き上げるためには、アルトに実現された操作環境を出発点とするにしても、やるべきことはいくらでもあった。
グラフィックス、音に加えて、アニメーションや動画、そしていつかは人の話す言葉までを取り扱い、五感に訴えるさまざまな情報を相互のマシン間でやり取りする環境を用意するためには、積み上げるべきソフトウェアの技術は山ほど数え上げることができた。
そしてもう一方で、人の肌合いに沿った新しいソフトウェアは常に、新しいハードウェアを求め続けるはずだった。グラフィックスや音や画像を自在に取り扱おうとすれば、ハードウェアの側でもまた、連綿たる創造の積み上げが求められる。ハードウェア屋の自分もまた、1人の人間の存在を原点としたパーソナルコンピュータの創造に寄与できる。
そう信じることができたことは、松本がマイクロハードを起こそうと決断する原動力となった。
西和彦が声をかけてくれたアルトの子供の開発計画は、松本を再びパーソナルコンピュータに向かわせた精神の支柱に、肉を付け、血を通わせるための作業にほかならなかった。
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