第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う |
1983 PC-100の早すぎた誕生と死 |
「ディスクベーシックの繁栄」という壁
富田倫生
2010/7/22
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1967(昭和42)年1月、慶應義塾大学工学部教授の関根智明を中心に、同学部の大学院出身者や研究者が集まって設立された管理工学研究所は、大型コンピュータ用の言語やOS、印刷用の組版システムの開発などに携わってきた実力派のソフトハウスだった。日本電気の情報処理事業グループからの仕事も受託してきた管理工学研究所は、PC-9801用の互換ベーシックの開発にも携わっていた。このベーシックを使ってPC-9801用に書き、1983年2月に売り出したばかりの日本語ワードプロセッサは、管理工学研究所にとって初めてのパーソナルコンピュータ用のアプリケーションだった。
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だが「MS-DOSベースで視覚的な操作環境を備えたワードプロセッサを書いてくれないか」と申し入れてきた古川を、学究肌の技術者集団による武家商法でこの後名を馳せることになる管理工学研究所は、まったく相手にしようとしなかった。古川は日本語ワードプロセッサを書いている別のソフトハウスをあたってみたが、話に乗ろうとするところは皆無だった。
標準的にIBM PCが備えているメモリが64Kバイト、PC-9801でも128Kバイトのメモリしか持っていなかった当時、これまでベーシックでアプリケーションを書いてきたソフトハウスにとって、OSに対応させたプログラムを書くことの敷居はきわめて高かった。
ROMに収まったベーシックでプログラムを書けば、RAMのメモリのすべてをアプリケーションとデータに利用できた。自由に情報を書き込めるRAMは、そのまま〈白紙〉の状態で確保された。
当時広く利用されていた、フロッピーディスクを使えるように機能拡張したベーシックは、ROMには収まっていなかった。ディスクベーシックは、フロッピーから読み込んで使う形が一般的だった。ただしその際も、80Kバイト程度のディスクベーシックの全体がRAMに読み込まれるわけではなかった。ROMに収められているものと共通する大半の部分は、そのままROMから利用され、ディスクへのファイルの入出力に関する15K〜20Kバイト程度の拡張部分だけが、RAMのメモリに読み込まれるようになっていた。つまりここでもかなりの部分を〈白紙〉として残すことができた。
ところがこれをOSに対応させるとなると、50〜60KバイトのRAMをあらかじめOSが占有することを覚悟せざるをえなかった。従来規模の記憶容量のままでは、半分ほどを〈白紙〉として残すことしかできず、残りにプログラムとデータを押し込まざるをえなくなった。
ベーシックはもとより、ディスクベーシックと比べても、OSへの移行はかなり大きな余分のメモリを、あらたに要求することになった。
さらにこれまで実績を残してきたCP/Mの16ビット版のCP/M-86ならともかく、MS-DOSへの対応にはより大きなリスクがあった。
日本で初めての16ビット機となった三菱電機のマルチ16は、GWベーシックとCP/M-86のマシンとしてスタートしていた。PC-9801の基本は、あくまでベーシックの機械だった。それでも別売のCP/M-86は、PC-9801の発表に間に合ったものの、初めてのMS-DOSとなる1.25版の供給開始は翌年の5月にずれ込んでいた。アスキーマイクロソフトに出向した古川の懸命の売り込みにもかかわらず、この時期、当初からMS-DOSマシンとしてスタートを切ったのは松下通信工業のマイブレーン3000や日立のMB-16001など、ごくわずかな機種に限られていた。
ソフトハウスを訪ね、もともと敷居の高いMS-DOSに対応させて、ビットマップベースでマウスで操作するワードプロセッサを書いてくれと話を切り出す前に、古川は深く息をつかざるをえなかった。
販売に関するなんの保証もないまま売り出さざるをえないパッケージソフトなら、ほとんど売れないといった事態も想定しないわけにはいかない。だがマシンに確実にバンドルしてもらえるのであれば、開発費を取りっぱぐれる心配はなかった。
にもかかわらず、管理工学研究所をはじめとする主要な日本語ワードプロセッサのメーカーは、いずれもMS-DOSに対応した製品の開発を引き受けようとはしなかった。千代田区外神田に同研究所が所有する関根ビルに通っては、MS-DOS版の開発を口説き続けるうちに、古川はCP/Mで体験した分の悪い戦いをもう一度、繰り返すことになるのではないかと恐れはじめていた。
CP/M隆盛のアメリカの状況を睨んで、古川は日本のパーソナルコンピュータを可能な限り早くベーシックから脱却させ、ビジネスの要求にも本格的に応えていけるものにしたいと考えた。
古川はテレビ朝日技術局に勤務する村瀬康治に依頼して、『ASCII』の1979(昭和54)年5月号から「How to CP/M」を連載してもらい、連載終了後は村瀬の監訳による『標準CP/Mハンドブック』を出し、さらに村瀬による「入門」「実習」「応用」の全3巻からなる『CP/M Learning System』の刊行へとつないでいった。
だが、さまざまな機器のコントロールにマシンを応用していこうとするエンジニアを中心に、技術系のユーザーを獲得しはしたものの、こと市販ソフトの供給の基盤としては、CP/Mは日本でほとんど有効に機能しなかった。カセットテープを供給媒体としてゲームが普及していったあと、少しずつ書きはじめられていた日本語ワードプロセッサや一部の業務用ソフトは、ドライブの管理機能を付け加えたディスクベーシックによって供給されていた。
確かにディスクベーシックを使えば、フロッピーディスクドライブを活用することはできた。だがベーシックにとどまっている以上、ソフトウェアはインタープリターの遅い構造に閉じ込められたままだった。OS上にさまざまな言語が用意され、これを使った本格的なソフトウェアが書かれはじめたアメリカの状況と引き比べて、ディスクベーシックが次世代の基盤として機能しはじめてしまった日本の状況を見るにつけ、古川は先のない脇道にこの国のパーソナルコンピュータ全体が迷い込んでしまったのではないかと危惧するようになっていた。
そして16ビット時代の幕が開いてもなお、古川の行く手にはディスクベーシックが立ちふさがっていた。
MS-DOSに対応した日本語ワードプロセッサの調達が難航する中で、古川は「16ビットにおいてもディスクベーシックは再びOSを封じ込めてしまうのではないか」と恐れはじめていた。そうなれば、日本のパーソナルコンピュータは今後も、実質的にはゲームマシンとして生き続けることになるだろう。ビジネスを突破口としてパーソナルコンピュータの世界が急速に拡大しつつあるアメリカとの格差は、今後回復不可能なほど広がってしまうだろう。
ではそうした事態を回避するために、現実のディスクベーシックの世界から、日本のパーソナルコンピュータをいかにして理想のOSの世界へと転換させていけばよいのか。
立ちふさがるベーシックの壁を前にして古川が成しうることは、取りあえずバンドル用のMS-DOS日本語ワードプロセッサの開発元を確保し、このOSで動くアプリケーションを1本でも多く生み出すためにサードパーティーの説得を続けることでしかなかった。
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