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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

MS-DOS無償提供という「奇策」

富田倫生
2010/7/28

前回「PC-9801をOSマシンに変身させるシナリオ」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1983(昭和58)年5月、アメリカ出張から帰ってすぐに、浜田は再生のシナリオの始動に向けて動いた。

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 府中のエンジニアに打診して、ブートストラップローダーからOSを経て、アプリケーションまで一気に立ち上げてしまうことに技術的な問題点がないことを確認してから、浜田はこのシナリオの最大の障害を崩しにかかった。

 サードパーティーが売り出す1枚のフロッピーディスクだけで、自動的にアプリケーションまで起動してしまうためには、それぞれのディスクにブートストラップローダーとOSを同梱しておかざるをえない。つまりマイクロソフトの著作物であるMS-DOSを、他のサードパーティーの製品として発売されるアプリケーションにバンドルせざるをえなかった。

 もともとの著作権者であるマイクロソフトからOSの供給を受けた日本電気は、PC-9801への移植の作業を行っていた。だが2次的な加工を行っているとはいえ、第3者の製品へのバンドルを実現するためには、当然原著作者の了承が必要だった。

 ではマイクロソフトは、バンドルを許容するのか。

 許容するとすれば、その際、どの程度の対価を求めるのか。

 対価が高ければ、サードパーティーはバンドルに二の足を踏み、PC-9801をOSマシンとして再生させるシナリオは機能しなくなると予想できた。

 浜田はバンドルの対価を可能な限り低く抑えようと腹を固めて、アスキーの西和彦を訪ねた。

 西和彦の返答に、浜田は虚を突かれた。

 MS-DOSのサブライセンスに対して、西は「いっさい対価を求めない」と即答した。

 浜田からアプリケーションにMS-DOSをバンドルしたいと打診を受けた瞬間、西はこの戦略が日本におけるPC-9801の勝利を決定づけるだろうと直感していた★。

 ★西にとって、OSのバンドルは目新しいものではなかった。すでにアスキーでは、PC-8801用のマルチプランの商品化にあたって、同じ手を用いようと考えていた。PC-8801用のマルチプランを企画するにあたって、アスキーはCP/M版を流用することを考えた。ライバルであるデジタルリサーチのCP/Mを、マルチプランにバンドルすることはできない。ただし当時アスキーは、マイクロソフトと共同で8ビットの共通規格としてMSXのプロジェクトを展開しており、その一環でMSX-DOSの開発を進めつつあった。8ビットの標準OSであるCP/Mと互換の製品としてMSX-DOSを書いていたアスキーは、これをPC-8801に移植し、この上でCP/M版のマルチプランを動かそうと考えた。PC-8801用のマルチプランには、MSX-DOSがバンドルされ、ユーザーは1枚のフロッピーディスクを差し込んで、電源を入れるなりリスタートをかけるなりするだけで、一気にマルチプランを使いはじめることができた。

 OSへの移行が、頻繁なディスクの抜き差しやこれまでに経験したことのない手順を求めるとすれば、ベーシックに慣れ親しんできたユーザーの多くが背を向けかねないことを、西や古川はすでに強く意識していた。

 ベーシックという現状を受け入れたがゆえに、ユーザーに広く受け入れられたPC-9801が、バンドルによって魔法の呪文でも吹きかけられたように一瞬にOSマシンに変身したとき、サードパーティーはどう考えるのか。

 もっともたくさん売れているPC-9801が先頭に立って移行の障害をならしてくれるなら、ベーシックを離れて新しいOS環境に移ろうと腹をくくった者は、誰でもこのマシンのMS-DOSを第一のターゲットとして選ぶだろう。

 西はその時点で働く〈力学〉の効果を、痛いほど身に染みて知っていた。

 マイクロソフトはマルチプランの開発にあたって、移植性の確保を目標に据えた。一方ロータスディベロップメントはPCとMS-DOSに賭け、移植性を犠牲にして、最高の性能の実現に徹底した。その結果、表計算市場はロータスの手に落ちたのである。

 〈バンドルが実現すれば、やがて日本のソフトハウスはすべて、ロータスの決断をなぞることになる〉

 ドミノの倒れていった先に何が待ち受けているか、西には見えていた。

 もっとも大きな市場の期待できる、それゆえにもっとも競争の激しいPC-9801からMS-DOSに乗り出していくとき、サードパーティーはここで最高の性能を実現しようとするだろう。そうなったとき、今度はユーザーがどう動くのか。新しいすぐれたアプリケーションがPC-9801用につぎつぎと書かれ、他機種には古いものしかないとなれば、ユーザーのこのマシンへの集中はますます募るに違いない。

 結果的にOSの時代は、当初からこれに対応しようとしたマルチ16やパソピア16によってではなく、ベーシックマシンとして生まれながら突如としてMS-DOSマシンに変身するPC-9801によって開かれることになる。

 そしてもしもPC-9801が勝つのなら、自分にもまた勝つチャンスがめぐってくることを西は意識していた。

 IBMがPC用の主OSとして位置づけてくれたことに加え、1-2-3の成功もあずかって、アメリカ市場ではMS-DOSの勢いは強まりつつあった。

 だが8ビットを制したデジタルリサーチは、いまだに高いブランドイメージを備えていた。日本のハードウェアメーカーの多くは、CP/M-86の移植を優先させた。さらにデジタルリサーチは、複数のアプリケーションを同時に走らせる機能を持ったコンカレントCP/M-86の開発を進めており、技術の発展の方向を明確に示していた。

 〈そのCP/M-86優位の状況を、バンドルの無償の受け入れによって流動化させることができる〉

 西は浜田の仕掛けに乗ることで、日本市場におけるMS-DOSの劣性を一気に逆転する可能性も生まれうると考えた。

 マイクロソフト副社長の肩書きを賭けて、西は無償★のサブライセンスの受け入れを即答した。

 ★本書の主要な登場人物である浜田俊三氏は、とりわけ取材を始めた当初においてはきわめて非協力的だった。初めてのインタビューの冒頭の言葉は、「僕はPC-9801に関してはいっさいしゃべらないことにしています」であった。沈黙の背景には、「有効に機能している戦略に関しては明かせない」という認識と、「たとえ自分が何かをなしえたとしても会社の業務としてやったことであり、個人的に視線を集めることは本意ではない」との思いがあるようだった。これまでPC-9801の開発史に関してほとんどレポートがなかった経緯には、浜田氏の沈黙が大きくあずかっているのだなと、そのとき納得がいった。

 その後、周辺からの取材を通して得た仮説を繰り返し浜田氏にぶつけた際、「誤りは正す」形の協力を得られたことで、筆者はPC-9801開発史の骨格を1つ1つ積み上げていくことができた。ただしその過程においても、ビジネス上の交渉相手が存在する事項に関しては、ほぼまったくといっていいほど浜田氏からの情報提供は得られなかった。「過去のこととはいえ、契約内容に関することを明かすことはビジネス上の信義に反する」として頑なに口をつぐむ浜田氏は、MS-DOSのサブライセンスが無償で行われたという点に関してもコメントを拒否し続けた。

 この点に関する本書の記述は、契約内容に関して知りうる複数の関係者の証言をもとに浜田氏に仮説をぶつけ、最終的には筆者が氏の顔色を判断して、事実に間違いないと確信し、まとめたものである。こうした筆者の最終的な判断に対しても、浜田氏は最後まで「単なる推測にもとづく記述である」と警告し続けた。

 本来単独の商品として販売するのが当然のMS-DOSを、無償で提供するという奇策には、マイクロソフト内部でも激しい論議があったようだった。それでもついに、来日したビル・ゲイツを交えた話し合いを経て、マイクロソフトとアスキーは、MS-DOSの無償のサブライセンスを正式に受け入れた。都心のホテルでの話し合いはゲイツのフライトスケジュールのぎりぎりまで続き、成田に向かうタクシーの中で浜田はついに、ゲイツから最終的な承認を得た。ゲイツのトランクを奪い取って飛行機会社のカウンターまで走った浜田は、次世代の主力商品を無償提供させた西の直感に、あらためて脊椎が震え出すような恐れに似た感情を覚えていた。

 震えながら浜田は、PC-9801の勝利をそのとき、深く深く確信していた。

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