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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

受託ではなく「漢字システム」で勝負を

富田倫生
2010/8/2

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 当初考えていたのは、いち早く漢字を使えるようにした東芝製のオフィスコンピュータのビジネスだった。

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 これまで大型コンピュータの中でも特殊な機種でしか使えなかった漢字を、東芝は前年、初めてオフィスコンピュータに載せていた。浮川はこのマシン用にそれぞれの会社の業務にあったソフトウェアを書き、日常の仕事にすぐに使えるようにシステムをまとめて売り込もうと考えた。老舗の東芝は全国に販売網を確立しており、徳島にも古くからの代理店があった。だがこの漢字オフコンは、東芝から独立して間もないJBCという会社でも扱っていた。JBCの社長に願い出ると、同社経由で扱わせてもらうことができた。

 売り込み先の要求に応じたソフトウェアは、初子が書いた。

 営業には浮川が飛び回ったが、ハードウェアが700万円、ソフトウェア込みのシステム全体で1000万円といった価格では、なかなか買い手がつかなかった。

 漢字を使ったシステムへの要求そのものは強い。地元の中小企業でも何とか手の出せる、安いものが提供できないかと考えた浮川は、ロジック・システムズ・インターナショナルが作っていたマシンに目を止めた。

 8ビットのマイクロコンピュータを使ったこのマシンは、画面にはカタカナしか出せなかった。浮川はこれに漢字プリンターをつないで、プリントアウトには漢字を出せるという安価なシステムを考え出した。ロジック・システムズからマシンを仕入れ、漢字プリンターは別に調達し、ソフトウェアは自分たちで書いて、地元の企業にセットで売り込んだ。


 OA関係のフェアーで、この漢字システムを浮川に見せられたロジック・システムズの営業部長は、プリントアウトに限れば1000万円の漢字オフコンと同じ機能を持つものを、浮川たちが自分たちのマシンを使って600万円を切る価格で提供している事実に驚かされた。ロジック・システムズにとっての次の目標だったマシン自体の漢字化に水を向けたところ、初子がその場で理路整然となすべきことを示したことが、ジャストシステムに新しいチャンスの扉を開いた。

 ロジック・システムズから依頼を受けて、同社の新しい8ビットのCP/Mマシン用に書いた日本語処理システムは、1982(昭和57)年10月19日から4日間、晴海の国際貿易センターで開かれたデータショウに出品された。

 日本電気が発表したばかりのPC-9801をはじめ、各社の新しいマシンに波のように人の群れが繰り返し寄せる会場の熱気にあおられながら、浮川は全国区に飛び出すことの可能性にあらためて胸を熱くしていた。

 夫婦2人だけで始めた会社はこれまで、オフィスコンピュータの販売とメンテナンス、加えてマシンの納入先からの開発依頼をこなし、第2次オイルショック後の苦しい時期をどうにかこうにか乗り切ってきた。スタッフも総勢6名に膨れ、徳島市内に30坪ほどの事務所を借りるところまでこぎ着けた。だが徳島だけを相手にビジネスを続けている限り、自分たちが地方のいちソフトハウス以外の何者ともなりえないことを、浮川は強く意識していた。さらにこの形でビジネスを続けていって、果たしてどこまで会社を存続させていけるかにも、自信がなかった。

 もしも東京で会社を起こしていたのなら、受託開発で会社を成長させることはできるのかもしれない。だが徳島を拠点としている限り、掘り起こせる受注ソフトの総量はたかが知れていた。リスクが小さく、確実な売り上げが望めるとはいっても、受託開発の仕事そのものが確保できなければ先はなかった。とすれば、どこと競い合っても勝負できる特色のある技術を身につけて、全国区で勝負するしか道はないのではないか。

 そう考えて浮川が選びとった選択肢の1つが、日本語だった。その開発の成果が、ロジック・システムズのマシンに組み込まれた形ながら、全国区の表舞台でおびただしい観衆の視線を浴びていた。

 浮川はこのとき、数カ月前に下した決断にあらためて確信を深めた。

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