第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う |
1983 PC-100の早すぎた誕生と死 |
PC-100とダイナウェア
富田倫生
2010/8/12
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
同時に発表されたPC-100の特長を、日本電気は「マウスの採用などによって使いやすさを一段と高めた、超高解像度のマシン」と訴えた。
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パーソナルコンピュータの利用が広範囲に及び、今ではコンピュータの知識のない人にもその有用性は理解されてきた。だがその一方で、「操作が難しい」「ソフトウェアの選択が大変」などの声があった。そこで、高性能のパーソナルコンピュータをもっと簡単に利用したいという要望に応えたのがPC-100と、日本電気は開発の狙いを示した★。
★PC-100のマイクロコンピュータには、PC-9801Fと同じ8086-2が採用された。当初からMS-DOSマシンとして設計されたPC-100は、GWベーシックをもとにしてマウスや高解像度のカラーグラフィックスへの対応、漢字入力などの機能拡張を行ったN100-BASICも、MS-DOS上でフロッピーディスクから読み込んでくる形をとっていた。 Windowsの搭載をあきらめざるをえなくなった中で、表計算のマルチプランとともにあらたに開発して標準添付されることになった日本語ワードプロセッサは、アスキーの陰に隠れた真の開発者、ジャストシステムの社名からJS-WORDと名付けられた。加えてベーシックのゲームソフトとして、その後日本でも人気を呼ぶことになるロードランナーがバンドルされた。 PC-100に添付されたMS-DOSも新しい2.0版であり、PC-9801Fのものと同様にローマ字と仮名の双方の入力方式に対応した漢字変換機能を組み込んであった。さらに立ち上げ時にファイルや命令をメニュー形式で表示してマウスによる操作を受け付ける、ビジュアル・コマンド・インターフェイスと名付けられたWindowsを志した小さな名残も付け加えられていた。 720×512ドットの高解像度に加え、オプションにまわされたカラーボードを組み込むことで、512色中から任意の16色を同時に表示できるようにしたグラフィックスの処理能力は、当時の対抗機種の中では傑出していた。だが情報量の格段に膨らむグラフィックスを強化した機種でありながら、PC-100には320Kバイトタイプの5インチドライブが採用された。PC-9801Fがいち早く640Kバイトの採用に踏み切ったその一方で、「技術の安定度を買う」としてPC-100が320Kバイトをとったことは、いかにもバランスを欠いていた。 PC-100にはフロッピーディスクドライブ1台のモデル10と2台のモデル20、加えてモデル20にあらかじめカラーボードを組み込んだモデル30が用意されていた。販売価格は白黒仕様のモデル10が39万8000円、モデル20が44万8000円。カラー仕様のモデル30は55万8000円と設定された。高解像度の専用ディスプレイは、白黒版が5万9800円でカラー版が19万8000円。PC-100が本来目指したカラー版のマッキントッシュとして使おうとすれば、あわせて75万6000円についた。 |
PC-100用の3次元グラフィックスアプリケーションに全力投球していた竹松たちは、大幅に機能強化したPC-9801シリーズの新機種にも、心は引かれなかった。
そもそも文字と数値という従来の枠組みに収まるアプリケーションを書くつもりのない竹松たちの目には、PC-9801が売り物としたGDCによる高速の文字処理も大きな魅力としては映らなかった。
デジタルRGBで決まりきった8色しか表示できないという点は、彼らが目指した世界とは無縁の発想から導き出された解答だった。PC-9801は2個組み込んだGDCの一方をグラフィックスの処理の高速化にあてていたが、PC-100に組み込まれたCRTコントローラは、GDCの機能をはるかに超えていた。自らもハードウェアに手を染めてきた3人のハッカーは、CPUにウエイトをかけないために巧妙にタイミングをとった設計やカラーのグラフィックスを高速処理するプレーン構造を目の当たりにして、PC-100に向けてアプリケーションを書く意欲をいっそうかき立てられた。
アプリケーションの販売に関してまったくノウハウを持たなかった彼らは、日本電気の後藤の世話で、システムソフトに販売を任せることになった。
活動の本格化に向けて、藤井は体制を整えて株式会社としてスタートすることを決めた。この年の暮れにつごう50ほどみなで持ち寄った候補の中から、ダイナブックを実現するためのソフトウェアとの意味を込めて竹松が提案したダイナウェアが選ばれた。
3Dマスターと名付けられたダイナウェアの初めてのアプリケーションは、ハッカー的集中力を存分に発揮した木原の疾走によって、早くも1984(昭和59)年1月にはシステムソフトから発売された。木原からバトンを受け取った竹松は、2つ目の製品として狙いを定めていた2次元のお絵かきソフトに向けて、一心不乱のコード漬けの日々に没入した。
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