第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う |
1983 PC-100の早すぎた誕生と死 |
パーソナルコンピュータ事業の主役交代
富田倫生
2010/8/18
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
いずれ事業体制の整理を迫られることは覚悟していたが、大内はこれまで、3つのグループの競い合いは全体として日本電気のパーソナルコンピュータ事業を活性化すると考えてきた。PC-100の詳細を渡辺は大内にも伏せ、開発があらかた完了した時点でPC-9801との設計思想の違いやソフトウェアのバンドルといった相違点を強調して承認を求めた。あえてそれを受け入れたのは、しのぎを削るライバルを社内に持つことが、結果として日本電気のパーソナルコンピュータを強くすると踏んだからだった。
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だが両機の発表の直後、特約店やマイコンショップを訪ねる中で幾度か耳にした声は、自分自身に与えてきた猶予の見直しを大内に迫った。
「このままでは日本電気内に派閥が生まれ、特約店、マイコンショップまでが系列に分かれて抗争を演じることになるのではないか」
そういぶかられたときには、理をもって相手を説得できる自信が持てなかった。片方のマシンをかつぐ側がショップを訪れ、もう一方のマシンのポスターをはがして代わりに持参してきたものを貼るよう求めたと聞かされたとき、大内は覚悟を決めた。
半導体はこの分野から手を引き、パーソナルコンピュータは情報処理に任せる。ただし8ビットのホビイマシンだけは、新日本電気から社名を変更していた日本電気ホームエレクトロニクスに担当させる。
この新しい枠組みを整えるために、大内は「すぐに機構改革に着手したい」と小林に申し出た。
強力なコンピュータの専門部隊を抱える日本電気が、目覚ましい成長の勢いを見せはじめたパーソナルコンピュータをさらに伸ばしていこうとすれば、餅は餅屋に任せることが素直な選択であることを、小林もまた承知していた。だが半導体には、まったく先の見えなかった段階から自力でここまで新しい種を育ててきた功績があった。「パーソナルコンピュータは情報処理に」という正論を大内に向かって吐くことは、関本にも、そして小林にも気が重かった。
「ふーん、そうか」
小林はただそう答え、「君がそれでいいならいいよ」とだけ続けた。
社長室で大内の提案を聞いた関本忠弘は、口元をへの字に結んだまま膝を乗り出して強く頷いた。
事前に方針を明かすことで抵抗の芽が頭をもたげることを恐れた大内は、機構改革の方針を支配人の渡辺和也にも伏せ、この1件に関しては発表の直前になって言い渡す形をとった。
12月5日の早朝、東京には雪あられが降った。
日中はきれいに晴れ上がったが、気温は平年並みには届かず、かろうじて10度を超えるにとどまった。
この日、日本電気はパーソナルコンピュータ事業の組織変更を正式に発表した。
新聞記者の質問に答え、大内は組織変更の意図を「パソコンの製品系列の拡大に伴い、開発、販売を担当するホームエレクトロニクス、電子デバイス、情報処理の3グループの事業戦略が重複しはじめてきた」ためと、正直に答えた。
1981(昭和56)年4月、3つのグループの調整機関として設けられたパーソナルコンピュータ推進本部とパーソナルコンピュータ企画室の2つのセクションは、体制変更後いっそう強化されることになった。
特にパーソナルコンピュータ販売推進本部には販売戦略の策定や外部との交渉の権限が集められ、マスコミへの対応も含めて、同社の関連事業のインターフェイスはこの組織に一本化された。
パーソナルコンピュータは情報処理に任せるという組織変更の狙いに沿って、事業の中核となるこの組織の長には、浜田俊三が選任された。
組織的にはなお、担当役員の大内の下に支配人の渡辺が位置し、パーソナルコンピュータ販売推進本部長の浜田は彼ら上司の監督を受ける立場にあった。
ただし言いだしっぺの大内も含め、トップの意志は情報処理への事業の移管にあった。
これまで電子デバイスでパーソナルコンピュータに携わってきたスタッフのうち、後藤富雄をはじめとする開発担当者は日本電気ホームエレクトロニクスに出向となった。それ以外の販売スタッフは、パーソナルコンピュータ販売推進本部に異動した。
日本電気にパーソナルコンピュータの種をまいた、大内と渡辺と後藤の3人の主役は、舞台を去ってはいなかった。
だが自分のコンピュータを思いのままに作りたいという後藤の夢と、社内ベンチャーを巻き起こしてのし上がろうとする渡辺の熱と、硬直しがちな大組織を彼らの挑戦によって活性化させたいという大内の理との調和を核とした第1楽章の主題は、伝統的なコンピュータ事業の枠組みに異端のマシンをいかに融合させるかという第2楽章のテーマに、このとき、きっぱりと取って代わられた。
スポットライトを浴びて舞台中央に進み出た浜田をはさみ、渡辺と後藤たちとは上手と下手に切り離された。
日本電気のパーソナルコンピュータ事業の主役は、PC-9801を立ち上げ、販売推進本部長となった浜田俊三に入れ替わっていた。
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