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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

PC-9801の市場独占

富田倫生
2010/8/27

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ベーシックをベースとして成長したパーソナルコンピュータを、OSによってより合理的に使おうという試みは大きな成果を上げていった。

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 さまざまな言語がOS上で使えるようになり、同じOSを使うことで、フロッピーディスクへの書き込みの形式がそろえられてファイルの互換性が確保された。異なったマシンで同じプログラムが使えるようになるという期待も、限られた形ではかなえられた。だがパーソナルコンピュータで主流となったOSが、CP/Mにしてもそれを引き継いだMS-DOSにしても、文字と数値だけを取り扱いの対象としたものだったことは、OSへの期待と現実になしうることを大きく乖離(かいり)させた。

 より強力な機能を持ち、より速く、より使いやすいアプリケーションを書くことで目の前のユーザーを奪い合おうとするソフトハウスは、MS-DOSの不備をマイクロソフトが補うのを待とうとはしなかった。グラフィックスを対象としていないMS-DOSの上でより視覚的なアプリケーションを書こうとすれば、ハードウェアに直接指示を出さざるをえなかった。個々のマシンのハードウェアに即応した部分を含んでしまえば、同じMS-DOSを採用していても他のマシンでそのまま同じプログラムを使うことはできなくなった。

 マイクロソフトが約束するWindowsの供給は遅れに遅れ、他社のGUI環境も標準に駆け上がる勢いを示せないままグラフィックスを欠いたMS-DOSは生き続けた。そうした中で、急速に視覚的な方向に発展しはじめたプログラム資産を共有するために歴史の前に提示された選択肢は2つあった。

 第1は、1つのマシンしか作らないこと。そして第2は、1つのマシンしか使わないことだった。

 このいずれかの道を選んで土俵を1つに限定してしまうことによってはじめて、グラフィックスにはみ出していくソフトウェアを、MS-DOS上で効率的に共有することができた。

 第1の選択肢が選ばれた世界市場では、複数のメーカーがPC互換機という1つのハードウェアのみを作りはじめた。

 一方いかにして日本語の機能を実現するかがグラフィックスと並ぶもう1つの互換性の壁となった日本では、IBM PC互換は長く標準の基礎とはなりえなかった。代わって日本において歴史が選択したのは、PC-9801という1つのマシンだけを使うという解決策だった。

 初戦でPC-100を退けたPC-9801が、他社の16ビット機から頭1つ抜け出してから、ソフトハウスは新しいアプリケーションをまずPC-9801用に書くようになった。こうなった段階では、日本語とグラフィックスが壁となってMS-DOS上でも互換性が確保できなかった点は、PC-9801にとって圧倒的な追い風として機能した。MS-DOSのアプリケーションへのバンドルという奇手は、PC-9801への排他的集中を猛烈に加速した。ユーザーはアプリケーションが豊富なうえに、新しいソフトウェアもまた一番はじめに登場するPC-9801に雪崩を打って集中し、そのことがソフトハウスのPC-9801重視によりいっそうの拍車をかけた。

 PC-9801が市場を独占しはじめた段階で、いくつかの競合他社は互換機によって対抗する可能性を繰り返し検討した。

 互換機開発のポイントは、ベーシックとBIOSにあった。技術情報が全面的に公開されているIBM PCでは、同社の権利を侵害することを避けて互換のBIOSを書くことには決定的な障害はなかった。互換BIOSを販売するフェニックステクノロジーズ社の誕生は、独自開発に必要な規模の大きな投資を不要にし、互換機メーカーの誕生に拍車をかけた。ベーシックに関しては、マイクロソフトがPC互換のGWベーシックを売っていた。

 一方BIOSを公開していないPC-9801では、互換版の開発の敷居は高かった。トムキャット社は互換BIOSの開発を進め、一時さまざまな角度から販売の可能性を探ろうと試みたが、日本電気の強い反発が予想されたために、商品化には弾みがつかなかった。さらにPC-9801に関しては、互換ベーシックの開発も大きな壁だった。

 だがいかに困難とはいえ、かつて古山良二をリーダーとする部隊が短期間に互換ベーシックの開発を成し遂げたように、2つの鍵となる基本ソフトの互換版を用意することは不可能ではなかった。

 セイコーエプソンは、この挑戦に打って出る覚悟を決めた。

 1987(昭和62)年3月、セイコーエプソンがPC-9801互換機を発表した段階で、日本電気はすぐさま、互換BIOSと互換ベーシックに著作権侵害があるとして法廷闘争に訴えた。独自に開発した互換ベーシックをマイクロソフトから著作権侵害として攻撃されたというPC-9801の誕生期のエピソードを思い起こせば、じつに皮肉なこの対抗措置がとられて以降、PC-9801互換路線をとる他のメーカーは現われなかった。

 互換性の要求に応えきれないMS-DOSという器が標準として生き続けたことで、PC-9801の市場独占は圧倒的なものになった。この1人勝ち体制は、歴史の跛行(はこう)が生んだもう1つの取りあえずの勝者であるPC互換機がDOS/Vによって日本になだれ込んでくるまで、1980年代のほぼ10年間、揺るぎなく続いた。

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