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IT業界の開拓者たち

第23回 アイダホのポテト王からパソコン王へ

脇英世
2009/3/6

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 マイクロンはモステックの技術者ウォード・パーキンソン、デニス・ウィルソン、ダグ・ピットマンを中心に、1978年10月、アイダホ州ボイゼに設立された。ウォード・パーキンソンの双子の兄弟であるジョー・パーキンソンも参加した。シリコンバレー以外の場所で半導体事業を興そうというのは極めて異例であった。

 パーキンソン兄弟は、アイダホ州の南東部に生まれ育った。少年時代はポテト畑で働いていたらしい。学校の成績は優秀で、ニューヨークのコロンビア大学を卒業した。ジョー・パーキンソンは、ボイゼの町で弁護士を開業していた。

 マイクロンの最初のオフィスは、ウエストボイゼにある歯医者のビルの地下室にあった。当初、マイクロンは製造設備を持たない半導体設計のコンサルティング会社であった。

 彼らはコンサルティングだけでなく、実際に半導体を設計し、製造することを望んだ。しかし、彼らの前に立ちはだかった壁は資金の問題であった。銀行もベンチャーキャピタルも資金を融通してくれなかった。ところが、ボイゼの田舎の住人である農民や機械業者や牧場主が、「アイダホに半導体産業を」という途方もない夢にほだされた。シリコンバレー以外の場所で半導体事業を始めようとするのは、普通の考え方では無理である。彼らは夢に取り付かれて、銀行から資金を調達した。しかし何といっても、ポテト王J・R・シンプロットが400万ドルを出資したことが大きな支えになった。

 マイクロンの製造施設は、トーマス・ニコルソンが200エーカーの土地を提供し、そこに建てられた。クリーンルームの建設にはモステックでクリーンルームの管理経験を持つキューバ難民ジュアン・ベニテツが雇われた。

 マイクロンの初期の歴史にはモステック、つまりモス・テクノロジーの技術者が頻繁に登場する。マイクロンにはかなりモステックの技術が継承されていたようである。

 1981年、マイクロンは最初の半導体製造工場を完成させ64KビットDRAMの製造を開始し、1982年に出荷を開始した。極めて順調な滑り出しである。業績もほどほどに伸びて1984年、株式を公開した。ところがこれは最悪のタイミングであった。前年から進出していた日本の64KビットDRAMが北米市場を席巻し、米国の半導体メーカー7社がDRAM市場から撤退した。DRAM市場に残れたのはTI(テキサス・インスツルメンツ)とマイクロンだけであった。

 1985年、マイクロンは日本の半導体メーカーをダンピングで提訴した。1986年の日米半導体協定締結でマイクロンは一息つき、1987年には1MビットDRAMに手を出した。1988年IBMやサンヨーと提携し、4MビットDRAM市場にも進出する。

 このあたりでJ・R・シンプロットのポテト市場での経験がものをいう。マイクロンは決して新しいものに飛び付かなかった。リスクの少ない旧製品でコストを抑えて競争に臨んだ。16MビットDRAMが騒がれているときに、マイクロンは断固として4MビットDRAMで対抗した。また、マイクロンは品質で勝負というよりは価格で勝負するタイプであった。この戦略は成功し、1991年、世界中でマイクロンだけがDRAMで利益を出していると報じられた。

  1992年、マイクロンはTIと韓国の現代電子を特許侵害で訴えた。マイクロンという会社の強さの別の一面は訴訟の強さではないかと思わせる部分もある。

 この危機の間、マイクロンの取締役会は毎週月曜日にボイゼのエルマーのパンケーキハウスで、いつも朝5時45分に始まった。J・R・シンプロットを中心とする全役員がつましい朝食を取りながらミーティングを始める。驚くべきことに田舎の場末のコーヒー店で、農民や機械業者や牧場主やポテト業者が、全世界を相手にする半導体戦略を話し合っていたのだ。取締役会は夕方4時まで延々と続き、4時からはマネジメントブリーフィングが開かれた。マイクロンは、こうした会社の内情をできるだけ秘密にしていたといわれている。

 1990年、マイクロンはエッジ・テクノロジーというパソコン製造会社をつくった。これは成功し、通販業界では3位に入った。1992年、エッジ・テクノロジーの466マグナム、1993年、466VLマグナムは最高速パソコンという評価を受ける。お手のもののメモリをたくさん積んでいたからである。メモリは自分で作っているのだからケチケチすることはない。1993年、エッジ・テクノロジーはマイクロン・コンピュータと名前を変え、マイクロングループとの結び付きを強調するようになる。

 1994年9月、パーキンソン兄弟が突然辞任する。創業以来社長を務めてきたジョー・パーキンソンは超悲観主義者であり、一方、取締役会を牛耳るJ・R・シンプロットは超楽観主義者であった。このときの対立は会社の成長を抑制しようとするジョー・パーキンソンと、より攻撃的に会社の拡大を希望するJ・R・シンプロットの路線との対立でもあった。

 それに、J・R・シンプロットは自社の内部情報のリークや株価操作をしたらしい。実際、J・R・シンプロットは穀物相場で何回か先物市場を操作した件で告訴され、取引への参加資格を停止されたり、罰金を支払ったりしている。また脱税でも摘発され罰金を科せられている。危ういことを嫌ったジョー・パーキンソンは、J・R・シンプロットの取締役辞任を迫ったが、逆に22%の株式を保有するJ・R・シンプロットの反撃に遭い、辞任せざるを得なくなった。

 ジョー・パーキンソンの後任の社長には、34歳のスティーブ・アップルトンが抜てきされた。スティーブ・アップルトンは、その経歴をマイクロンの最低賃金である時給5ドルのオペレータとして始めている。

 この後、マイクロンは拡大戦略を推し進め、ボイゼの地場産業から、全米各地や世界各地に工場を持つようになる。

 1997年8月、マイクロンは有名なネットフレーム社を買収した。パソコンの売り上げはマイクロンの売り上げの40%に及んでいる。DRAM関係の売り上げは全体の40%程度だという。マイクロンは多角化戦略を推し進めている。

 マイクロンは善かれあしかれJ・R・シンプロットの哲学を具現した企業である。マイクロンは研究開発に多大な経費を注ぎ込むのではなく、できる限りコストを抑える方策を採って成功した。J・R・シンプロットはすでに93歳、かつてその22%を占めたマイクロンの持ち株も、会社の成長とともに数%程度に下がってきているといわれている。

 1998年マイクロンはTIのメモリ部門を買収した。シャチがクジラを食べるような買収であった。

 2000年DRAM市場のシェアは、三星23%、マイクロン21%、現代電子19%、東芝9%の四強によって支配されていた。2001年DRAM市場は激戦となり、猛烈な価格低下を経験した。このため東芝が撤退を余儀なくされ、2001年12月マイクロンは東芝のDRAM製造部門を買収した。さらにマイクロンはハイニックス半導体(旧現代電子)との提携を進めている。ここに世界のDRAM市場は1位のマイクロン、2位の三星電子の二強によって支配されることになった。

 マイクロンは、1980年代に米国のDRAM市場を制覇した日本の覇権を奪還したことになるのである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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