第43回 コンピュータ世界のカリスマ
脇英世
2009/4/9
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
テッド・ネルソン(Ted Nelson)――
ハイパーテキスト提唱者
ハイパーテキストの生みの親であり、コンピュータが人間の生活に与える可能性を説いた男、テッド・ネルソン。彼がどのような過程を経てそのような思想に行き着いたのかを検証してみよう。
テッド・ネルソンは1937年生まれ。少し年を取ってはいるが、ロックスターのロッド・スチュアートのような感じがある。写真写りは極めて良い。絵になる男だ。もっともこれには訳がある。本当はテッド・ネルソンでなく、セオドア・ホーム・ネルソンというのだが、テッド・ネルソンと呼びたい雰囲気で、実際、テッド・ネルソンは1957年にはロックミュージカルも書いているし、最近は実験的なロック映画も作っているらしい。
テッド・ネルソンの父は、シドニー・ポワチエが主演した映画『野のユリ』を監督したラルフ・ネルソンだ。分からなければ、あのキャンディス・バーゲンの主演した映画『ソルジャーブルー』の監督だといえば分かってもらえるかもしれない。なお、父、ラルフ・ネルソンは若いときは必ずしもまじめな少年ではなかったらしい。警察の監察記録が残っている。
テッド・ネルソンの母は美人女優のセレステ・ホームである。多くの映画に主演しているが、日本ではあまりなじみのない女優のようだ。もっとも彼女が出演した映画の題名はかなり手を加えられているので、わたしが日本語の映画題名を知らないだけかもしれない。1919年4月29日生まれで、公称の生年月日を信じれば、テッド・ネルソンはセレステ・ホームが女優デビューする1年前の、18歳のときの子どもということになる。セレステ・ホームが最初の夫ラルフ・ネルソンと結婚していたのは、記録によれば1936年から1938年の3年間だけである。セレステ・ホームはその後3回結婚をしている。
テッド・ネルソンの生涯は挫折に満ちている。本人が『リテラリーマシン』(テッド・ネルソン著、竹内・斉藤訳、アスキー刊)の中で語っているところによれば、幼いころからテッド・ネルソンは分類や階層に疑問を感じていたという。中学や高校は彼の肌に合わなかった。「学校もわたしも互いに嫌悪し合っていた」という表現が面白い。高校時代のテッド・ネルソンはアイデアを系統立てるためのさまざまなシステムを試したらしいが、どの方法も「1つのアイデアを同時に複数の場所に収める」ことはできなかった。
テッド・ネルソンが崇拝していた人物はバックミンスター・フラー、オーソン・ウェルズ、バートランド・ラッセルであった。バックミンスター・フラー、オーソン・ウェルズは育った家庭の環境から分かりやすいが、哲学者のバートランド・ラッセルは意外な気がする。しかし、テッド・ネルソンは大学で哲学を専攻していたし、実際に好きだったのだろう。後年、ザナドゥの開発の中でもバートランド・ラッセルの名前を縮めた専門用語が使われている。
高校を卒業すると、テッド・ネルソンは1955年スワースモア大学に進み、哲学を専攻した。哲学と社会科学系の講義を渡り歩いたらしい。
1959年、スワースモア大学を卒業。引き続きハーバード大学大学院に入学した。多くの文献が社会関係論を目指したと書いているが、本人は「コンピュータ学科へ進んだ」(『リテラリーマシン』)と書いている。コンピュータが専門であろうとなかろうと、どうでもよいのではないかと思うのだが、本人の学歴の記述にはどうも歯切れの悪いところがある。哲学科出身という方が神秘的でエンジニアは尊敬すると思うのだが、彼ほどのカリスマともなると、いろいろ苦労することがあるのだろう。
このころテッド・ネルソンはIBM7090用のワードプロセッシングプログラムを書いた。ワードプロセッシングというよりはテキストハンドリングという呼び方の方が適切だといわれる。作業工程の追跡とアウトラインによる修正も含めたこのプログラムが、彼の人生における長い課題となる。さらにテッド・ネルソンは文章単位のハイパーテキストと呼ばれるアイデアに行き当たる。
テッド・ネルソンは数学が苦手で、当時のコンピュータ学科における数学偏重の風潮についていけなかった。武器を使いこなせなければ戦士たる資格はない。テッド・ネルソンは博士課程に進めなかった。1963年、大学院の社会関係学科(現在は社会学科)で修士号を取得した後、ジョン・リリー博士の研究室に入り、イルカの調査研究に1年間を費やした。その後、バッサー大学へ移り、2年間社会学を教えた。この辺の遍歴が風変わりだ。
バッサー大学時代、テッド・ネルソンはアウトラインプロセッシングの考えにたどり着く。1965年、コンピュータ学会のACMでジッパーの付いたリストに関する論文を発表した。好奇の目で見られたものの、結局は異端扱いされる。不当な評価ではないと思う。テッド・ネルソンは紛れもなく異端の扇動家なのである。
いくつかの仕事を渡り歩いた後、テッド・ネルソンはハーコート・ブレイスという出版社に勤めた。この出版社時代にテッド・ネルソンはザナドゥ(Xanadu)という名前を見つけた。ザナドゥとはサミュエル・テイラー・コールリッジの詩「クブラ・カーンもしくは夢のなかの幻影、ある断片」に出てくる神秘的な宮殿の名前である。インターネットで検索すれば、全文が見つかると思うので、テッド・ネルソンのザナドゥの崇拝者はダウンロードして英語の辞書を片手に読むとよい。クブラ・カーン(KublaKhan)とはフビライ汗のことである。ただし、テッド・ネルソンはコールリッジの詩からよりも、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』に出てくるザナドゥと呼ばれる豪邸の方を先に知っていたらしい。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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