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IT業界の開拓者たち

第52回 2001年に消滅したHALコンピュータ

脇英世
2009/4/24

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 ブラックジャック・バートラムの計画は「アメリカ」と呼ばれた。バートラムが死ぬと、秘密計画「アメリカ」はジャック・キーラーが差配した。

 RISCの父、IBMのジョン・コックがアンドリュー・へラーについてきちんと、有形無形の圧力を恐れず真実を語っている。この点ジョン・コックは立派である。

 IBM研究所からは多くの人がRS/6000を作るためにオースティンに行ったが、IBM研究所からどんな人が行ったかという質問に対してジョン・コックは次のように答えている。

 「もちろん、アンドリュー・へラーがその計画のために猛烈に働きました。彼はそもそも最初の日からRISCの熱心な鼓吹者でした。アル・チャンはハードウェアとOSの両方に非常に多くのアイデアを出して貢献しました。コンパイラの分野では、ピーター・マークスタインが多くの斬新なアイデアの源泉でした。グレッグ・チャイタンが、コンパイラのレジスタ・アロケータを書きました。それからグレッグ・グロホブスキーがいて、進行調整役をやり、フレッド・ブラウントが全体計画で多くの仕事をしました」

 アンドリュー・へラーは相当過激に開発を進めたらしく、ほかの部門としきりにもめ事を起こしたことが伝えられている。

 アンドリュー・へラーはRS/6000の完成前にIBMを飛び出した。アンドリュー・ヘラーのIBMにおける最後の職は、AIXとRS/6000を開発する独立事業単位(IBU)のジェネラル・マネージャであった。アンドリュー・へラーのIBMの在職期間は23年であった。

 アンドリュー・へラーの開発したRISCアーキテクチャは、POWERと呼ばれた。このRISCは第2世代RISCと呼ばれた。その訳は、RISCの考え方を変更してしまったからである。RISCの原義は縮小命令セットコンピュータと呼ばれ、命令セットから複雑な命令を取り除き、マシンのサイクルと命令セットの対応をよくしたものである。1命令は1サイクルで実行されるようにしようというものであった。

 ところがPOWERではCISC的な命令をむしろ積極的に取り入れてしまった。並列処理、分岐予測、キャッシュの多用、レジスタファイルの使用と相まって、これがRISCかという批判が出たほどである。IBM側の反論は縮小命令セットサイクルが問題なのだということであった。簡単にいえばコンピュータは高速ということが問題なのであって、高速性を実現するためにはRISCの純粋性に拘泥する必要はないというものであった。

 RISCはIBMのジョン・コックが提唱したものであり、IBMならばRISCの定義をどのようにも変更できる。しかし、これだけ乱暴なことをできる人間はほかにいない。アンドリュー・へラーだけである。アンドリュー・へラーはRISC純粋派が目くじら立てて怒るようなことをあえてした。POWERの高速化の達成のためなら利用できるものは何でも利用した。

 1990年2月「アメリカ」は完成し、RS/6000が発表された。RS/6000は、IBMの大型コンピュータが退潮傾向にある中で大ヒットとなり、次世代を担うIBMのワークステーション分野の確保に寄与した。RS/6000の大成功がなければIBMの退潮は決定的になっていたであろう。

 このPOWERアーキテクチャをLSI化したものがPowerPCである。RS/6000のCPUは当初3枚の基板でできており、LSI化されていなかった。PowerPCは大当たりし、IBMのRS/6000、アップルコンピュータのマッキントッシュに使われて読者にもおなじみだろう。

 さてIBMを飛び出したアンドリュー・ヘラーは1990年5月に共同経営者とHALコンピュータを設立した。富士通が援助していた。

 アンドリュー・へラーは「HALは(誰でも考えるように)『2001年宇宙の旅』に出てくるHALコンピュータから取ったものではない」と主張していた。通常の解釈ではHの後の文字はIで、Aの後の文字はB、Lの後の文字はMであり、HALとはIBMより進んだコンピュータというジョークとみなされる。しかしアンドリュー・へラーによれば、HALとはHeller And LaCrouteの略だという。LaCrouteは共同設立者の名前である。

 1993年11月HALコンピュータは富士通に正式に買収された。HALコンピュータは現在64ビットSPARC V9仕様に適合したソラリス互換システムとソフトウェアを設計、販売し、富士通用に64ビットのスケーラブル・サーバ技術を設計していた。

 実はSPARCの仕様は公開されており、サンにライセンス料を支払うことなく、誰にでも作ることができた。64ビットSPARC V9仕様というのはもともとサンのウルトラSPARCの仕様だったのだが、富士通はこれに準拠したSPARC64を独力で作り上げてしまった。

 またSPARC64のOSは、サンのソラリス2.4をもとにしていた。富士通はソラリスのソースコード・ライセンスを持っていた。結局OSはソラリスのクローンであった。従ってハードもソフトもサンのクローンだったわけである。

 これがHAL300シリーズであった。

 HALコンピュータはそれなりに善戦したが、2001年5月ついに親会社の富士通によって消滅させられた。これに先立つ数カ月前、富士通はIBMの大型コンピュータの次世代互換機をアムダール部門で開発させるのを断念している。時代が変わってきているのだろう。

 HALは『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータだが、期せずして2001年、HALは消滅することになった。

 アンドリュー・へラーはその後ラムバス、S3、n-Chop 0'INTなどの立ち上げに参加した。しかしその後はあまり活動しているとのうわさを聞かない。野鴨が活躍するにはそれなりの環境がなければならないのかもしれない。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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