第53回 マセマティカを作った男
脇英世
2009/4/27
26歳になると、科学論文は50本に達した。一方で、教員としての出世は、本人の語る輝かしい業績の割には遅い。学位の取り方が変則的なうえに、同僚やほかの人たちの仕事をまったく無視してかかる点が問題であったといわれている。
1986年、27歳のときにプリンストン大学の高等研究所を去り、イリノイ大学の物理学、数学、コンピュータ科学の教授になる。自分の率いていたプリンストン大学の高等研究所のダイナミカル・システム・グループをそのままイリノイ大学に連れて行ったらしい。ここで、コンプレックス・システム研究所を持つことになる。イリノイ時代には、午後2時に出てきて、翌朝6時まで仕事をしたらしい。自分の仕事だけに閉じこもりがちであったのに加え、学内政治を軽視しがちであったため、旧来の学会のチャネルから予算を獲得するのに困難を感じていたようだ。
ステファン・ウルフラムは、学問の世界とは結局そりが合わなかった。2年ほどであきらめてしまったようで、29歳になると、あらゆるジャンルの論文・原稿が消滅してしまう。
学問の世界から転出を図ったステファン・ウルフラムは、28歳で『コンプレックス・システム』という雑誌を創刊し、1987年にウルフラムリサーチを創立する。数式処理・数値計算ソフトウェアのマセマティカを開発するための研究所である。そこで最高経営責任者に就任した。
1988年6月、ウルフラムリサーチは最初のマセマティカをリリースした。また、同ソフトの解説本を出版する。ステファン・ウルフラムはマセマティカという名前が不満であったらしい。個人的にはSMPという名前にしたかったようだ。このことから分かるように、事業化には隠れた参謀がいた。実際、会社の経営は専門の経営チームを雇って任せていた。また、ベンチャー・キャピタルからの投資を嫌ったという。ウルフラムにマネージャはいない。誰もが皆、自己管理しているのである。
学問の世界と違い、実業の世界はステファン・ウルフラムの性格に合っていた。マセマティカの売り上げは好調で、ウルフラムリサーチの運営も成功した。1991年、マセマティカのバージョン2を出し、1996年にはバージョン3を発行した。この年には子宝にも恵まれている。数学者の奥さんをもらったらしい。会社から100マイル離れたシカゴに住んでおり、週に2〜3日出社し、通常は電子メールで会社を経営しているという。
1999年5月、マセマティカのバージョン4を発売した。波瀾(はらん)万丈の生活だったが、高価なマセマティカが100万本も売れたことで、収入も保証され、暮らしも安定した。このため、敵対的、戦闘的といわれた性格も柔らかくなったようだ。すべてが満たされれば、誰でも温和な紳士になるのだろう。
ステファン・ウルフラムの面白いところは、自分の著作やインタビューなどのデータをすべてそろえていることだ。大抵はデータが少なくて閉口するのだが、この人の場合は多すぎて閉口してしまう。何とか全部読むことができた。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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