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第7回
経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴

遠竹智寿子
2002/1/16

■事実上のフリーエンジニアに

 高庄氏は、会社を辞めて顧客であった会社の契約社員としてシステム業務を請け負った。その企業の仕事に時間は取られたが、契約上、ほかの仕事もしていいことになっていた。そのため、別の会社からのプロジェクトも請け負った。時には、ほかのエンジニアにプログラムを発注し、事実上は個人事業者になっていた。会社を辞めてからの1年間は、金銭面でもかなりの額を稼ぎ、昼夜で違う現場で働くといった忙しい生活を送っていた。そうした仕事のため、自宅を両方の現場の間に構えたほどだ。

 その当時、現アイジーエスの社長の市山氏から声を掛けられ、アイジーエスの仕事も手伝うようになったという。市山氏は、退職した職場の仲間の1人だったそうだ。一緒にプロジェクトを担当したことは一度しかなかったが、日々顔を合わせる中で気が合ったのだという。

主な業務
業務システム提案、設計、開発。このときに得たスキルとしては、構造化設計、汎用化設計、ヒューマンスキルなどがある
高庄氏のフリーエンジニア時代およびテトラニクス時代の主な業務(兼任していた時期があるため、ここではフリーエンジニア時代とテトラニクス時代を区別せずに一緒に表記している)

会社を設立した目的は、「自分たちが納得できる環境の中で働きたかった」からだと、高庄氏はいう

■仲間とともに会社を設立

 彼には、ほかにも気の合う技術者仲間が数人いた。彼らは皆、会社から独立を考えていた。事実上個人事業主となって会社から独立していた高庄氏は、まだ会社に残っていた仲間らとともに、会社の設立を決断する。当時高庄氏は26歳で、ほかのメンバーも20〜30歳代前半で、最も脂が乗っている若いエンジニアばかりだった。「自分たちが納得できる環境の中で働きたかったので、会社を作りたかった。上司の指示で動くのではなく、自分自身の能力で道を開きたい。そういった技術者の願いをかなえることができる会社を望んでいました。また、これは若くて過信があったのかもしれませんが、自分が自信を持ってやったことに対して、きちんと収入が欲しいといったこともあったのかもしれません」と高庄氏。そんな7人の仲間とともに、独立心が強い個性派集団となる「株式会社テトラニクス」を設立した。しかし、独立心が強く、だれもが開発の最前線に立ちたがるエンジニアばかりでは、だれも社長になろうと名乗り出る者が現れない。そのため、最終的にアイジーエスの市山氏が、テトラニクスの社長を兼務することで落ち着く。仕事は、昔の関係のつながりや知り合いに営業をかけることもあったが、アイジーエスが請け負ったプロジェクトが多かったという。

 テトラニクスの設立は1990年11月だが、その半年後の1991年4月に、高庄氏はアイジーエスの取締役に就任している。その後のことにも触れておくと、テトラニクスは最終的に、1995年10月にアイジーエスに吸収合併される。

 そうした会社の経緯を聞くと、最初から仲間とともにアイジーエスに合流し、アイジーエスの仕事をしてもよかったのではないかと、ふと疑問が浮かぶ。会社を設立した意味があったのだろうか? その意地悪な質問を高庄氏にぶつけると、高庄氏はしばらく考えた後で、「当時は、自分たちが納得できる環境がつくりたかったわけですから、テトラニクスの設立は必須でしたね」と答えてくれた。彼も仲間も、仕事をするための環境にとことんこだわっていたようだ。その環境として、仲間とともに納得できる器が、テトラニクスだったのだろう。高庄氏は、「仲間は、皆プライドを持って仕事をする者ばかりでした。請け負う仕事の条件そのものよりも、自分たちのパフォーマンスを、いかに相手に認めさせるかを重んじていたと思います」という。彼らのエンジニアとしてのこだわりが伝わってくる。

■テトラニクスで得たスキルとキャリア

 テトラニクス時代の初期に高庄氏が手掛けていたプロジェクトは、20人ほどがかかわった業務システムの設計・開発だったが、以前からの研究所関連の仕事なども引き続き引き受けていたという(例えば、電話管理システムなどの研究・開発支援などはこのころであったという)。この時代、高庄氏はオブジェクト指向を意識してプログラミングしていた。また、BASICからUNIX(News)でC、さらにはAda(エイダ)など、さまざまな言語で開発をしたという。さらに、技術的なスキルに加え、プロジェクトリーダーとしてヒューマンスキルが必要になっていたという。「個々の技術がどうとかではなく、プロジェクトをどれだけ仕切れるかが仕事を進めるうえで重要になっていました」と、高庄氏はいう。

 その後、端末系ネットワークシステムの開発管理を受け持つことになる。これはメンバーが60名、開発期間は数年単位というかなり大規模なプロジェクトであった。このプロジェクトで高庄氏は、プロジェクトの総統括役となり、予算の策定なども手掛けるようになった。このプロジェクトは、全国でサーバを数千台、クライアントPCを数万台も導入するビッグ・プロジェクトの一部を担い、ORACLE、UNIX、OS/2など、当時の先端技術を利用し、技術力もかなりのものを要求されていた。そのうえで、大規模プロジェクトのチームリーダーとしてのマネジメント能力や、クライアント、関連するほかのプロジェクトリーダーなどとの交渉、トラブルが生じた際の調整能力、プレゼンテーション能力などが要求されたという(このプロジェクトは、アイジーエス時代になっても引き続き担当することになる。

 このプロジェクトは、アイジーエスとテトラニクス両社で協業して進めた。アイジーエスの市山氏や高庄氏をはじめ両社の関係者は、それぞれで手を広げて案件を獲得するよりも、大規模案件を受注できる体制を作った方がいいのではないかと考えるようになっていたという。当時、アイジーエスが積極的に企業規模の拡大を目指していたこともあり、前述したように、テトラニクスはアイジーエスに吸収される形になったのだという。この合併は、こうした理由以外にも、両社が共有する仕事が多くなったこと、テトラニクスが開発を行っても、顧客に対してはアイジーエスとして行う案件が多かったことなど、経営上の判断が大きく作用した。

テトラニクスでは、さまざまな経験を積めたという高庄氏

■役割を終えたテトラニクス

 しかし、テトラニクスのメンバーとしても、そろそろ別の会社にしているメリットを見いだせなくなったという事実もあったのではないだろうか。その点を高庄氏に問うと、「だれかの指示を受けながら働くことに当初抵抗があったわけですし、こうしたい、こんな環境で働きたいと、自分たちの望む環境をつくれたということで、メンバー全員が納得できたと思います」と答える。つまり、会社という環境をつくり、そもそもの目的を十分に達成できたということだろう。すでにテトラニクスの各メンバーも、次のステージを模索する段階にやってきていたのだろう。

■ダウンサイジングとインターネットの波

 両社の事実上の合併が行われたころが、バブル崩壊直後になる。その痛手を受けることはなかったのだろうか? 「バブルの崩壊は、うちとしてはとてもありがたかったのです。時期として、ちょうどメインフレームからUNIX系へのダウンサイズが始まったころになります。当社の仕事は、UNIX系の仕事が中心だったため、ダウンサイジングの流れに乗り、業績はそれほど悪くなかったんですよ。確かに中には中止したプロジェクトもありますが、全体としては、仕事はやりやすくなったのではないでしょうか」と、高庄氏は振り返る。

 その後、インターネット時代となり、アイジーエスはさらに会社の規模、売り上げを拡大していった。そのころ、どうやって人材を確保したのかと聞くと、高庄氏は、「仕事がいくらでもあるバブル時でさえ、だれでもいいから採用しようというスタンスではなかったですね。採用は、常に厳しくしています。自分がそうであったように、技術だけよりも、その人が仕事にかける意欲や意気込みみたいなものを重視してきたかもしれませんね。」と、アイジーエスの経営陣の1人として語る。発足時のメンバーは、社長を入れて3人だったアイジーエスだが、テトラニクスを吸収し、そのスタッフ数も10名、30名、そして100名と、業績とともに着実に増えた。現在は、ひところよりも少なく、70名ほどのスタッフで落ち着いているそうだ。

主な業務
大規模端末にかかわるネットワークシステム開発/管理。開発要員は60名程度で、プロジェクトリーダとして、プロジェクトの総括、予算策定などを経験。このときに得たスキルとしては、マネジメント能力、トラブルへの対処、プレゼンテーション能力などのヒューマンスキルのほか、Oracleデータベース、UNIX、OS/2などの知識がある
パッケージ製品のローカライズやユーザーへの導入支援。このときに得たスキルとしては、Windowsアーキテクチャの知識などがある
Webでのオーダー受け付けシステムの開発(用件定義、基本設計および進捗/品質管理)。このときに得たスキルとして、Apache、WebLogic Server、J2EEなどの知識がある
FA向け制御システム
UNIXおよびC言語によるプログラム開発
高庄氏のアイジーエス時代の主な業務(一部は、合併前のテトラニクス時代から手掛けていたプロジェクトがある)

若手のエンジニア育成については、「自分が技術者を育てようという意識はありません」と、高庄氏は強調する。しかし、仕事ができる“場”をどう作ることができるかに、これから挑戦しなければならないともいう

■そして現在の課題は?

 最近の高庄氏の職務の1つは、パッケージ製品のローカライズと、その製品のユーザーサポートがある。アイジーエスは、以前は自社ブランドを育てようとしていたが、現実は厳しい。そこで、日本にはない、米国のWebシステム構築やグループウェアなどのパッケージ製品を取り扱うようになった。高庄氏は、10人程度のチームのマネージャとして、現在も開発の進ちょく管理を行い、品質向上のため、米国への要望やクレーム解消、販売促進といった業務もこなしている。

 そこで英語について聞いてみると、「会話そのものは、自信がないので出張時は英語の話せる技術者を連れていきます」と謙虚に語る。しかし、時間があれば英語のマニュアルを読みふけっていたという経験は、現在も生かされているようだ。

■経営者としての人材育成論

 さらに自身が関与している現在進行中のプロジェクトには、Webオーダー受け付けシステムがある。このプロジェクトでは、Webサーバとして多くのサイトに採用されているApacheに、Java Application Serverなどの最新技術を利用しているという。まさに常に技術スキルでも前進を続ける高庄氏だが、今度は取締役として、人材育成について話を伺ってみた。それについては、「自分が技術者を育てようという意識はありません」と、きっぱりいい放つ。

 「詰め込んだだけの知識では応用が効かない。資格でも技術でも、持っているだけでは意味がない。それをどう生かせるかがポイントだと思っています」と、環境そのものが、技術者としてのスキルやキャリアの発展にも大きく影響すると信じる高庄氏。「育つ人材というのは、自身で勝手に育つものだと思っています。どれだけ自己投資できるかが自身の成長につながるのではないでしょうか。仕事に対する意識付けやモチベーションといったものをきちんと保つということの方が、技術よりも優先してしかるべき。私自身も技術そのものを追い求めてきたというのはないんです」と続ける彼のもっぱらの課題は、「技術者を育てる環境づくり」だそうだ。

 さまざまなハードウェア、ソフトウェア、そしてシステムを手掛けてきた高庄氏だが、いままでの自分自身についてこう語る。「自分がこだわってきたのは、技術そのものよりも、仕事に対する自分なりのスタンスですね。技術そのものを追い求めたということは一度もなかったですね。やはり、人に喜ばれることは好きですし、若いときはとにかく一生懸命でしたが、いまも前向きに取り組むことには自信があります

飽くことのない探究心と、旺盛なチャレンジ精神で自らの道を切り開いてきた三木氏。そんな彼のスキルとキャリアを支え続ける本とは? その答えはエキスパートに聞く ぼくのスキルを支えた本に!



Index
最前線で必要なスキルとキャリアを知る! 第5回
  私が経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴(1/3)
  私が経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴(2/3)
私が経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴(3/3)

「連載 最前線で必要なスキルとキャリアを知る!」
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