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第7回
経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴

遠竹智寿子
2002/1/16

高校時代に“情報処理技術者”という言葉に出合ったのが、エンジニアになるきっかけとなったという高庄氏

■情報処理技術者はだれでもなれる

 高庄氏は、高校時代に自分の将来の職業を考慮して、大学を検討したという。当初は、教師か公認会計士になれればと漠然と考えていた。しかし、自分で模索する中で、当時それほど聞き慣れない“情報処理技術者”という言葉を耳にしたという。高庄氏は早速、情報処理技術者についていろいろと調べてみたという。最初は、情報処理技術者試験という国家試験に合格しないとなれない職業だと思い込んでいたが、「教師や会計士のように、国家試験などに受からなくてもなれる職業だと気付いたのです。だれもが目指せる、開かれた職業だなと思いました。それに、周囲の友人たちからも、教師には向かないといわれていましたしね(笑)。まじめな話、理数系が得意だったこともあり、コンピュータに携わりたいと思うようになりました」という。その調査の結果、工学大学の電子通信工学科を志望し、無事合格した。“情報処理技術者”というキーワードに出合わなかったら、彼はいまごろ教壇に立っていたかもしれない。

■大学を辞めて専門学校に行った理由

 このように、早くから将来を見据えていたはずの高庄氏だが、大学生活はアルバイトに明け暮れ、最終的には単位が足りずに丸3年で大学生活を終えた。「根本的に仕事が好きなんですね。居酒屋などの接客業が主でしたが、すでにかなりの月給を手にしていましたし、働いて報酬をもらうことにやりがいを感じていました。大学を中退したとはいえ、社会に出てからの人間関係やらコミュニケーションは、そのとき培ったものといまでは強く感じています」と、高庄氏は当時のことを振り返る。

 大学は退学したが、情報処理技術者という将来の道を変えようと思ったわけではない。退学後すぐに、コンピュータ専門学校の1年コースに入学する。専門学校では、COBOLを中心としたプログラミングを学んだそうだが、高庄氏が専門学校に通った目的は、技術や知識を学ぶことにあったわけではないという。では何を学びに行ったのか? それは、具体的な就職ルートの確保であった。その思惑どおりというべきか、学校の紹介によって難なくあるソフトウェア会社N社への入社が決まった。しかし、このときも友人たちからは、「いまさら昼間の仕事はできないだろう」と、さんざん皮肉をいわれたという。

配属先や担当 主な業務
某大手通信会社に常駐  研究開発支援(ソフトウェア生産管理、大容量自動車電話、ATM-LAN監視システムなど。このときに得たスキルとして、構文解析アルゴリズム、差分抽出アルゴリズム、圧縮アルゴリズム、移動体通信方式の知識などがある
高庄氏のN社時代の主な業務

■人事担当者への一言が人生に大きな影響を

 バイト生活の終わりと入れ替わる形でプログラマーとしての社会人生活が始まった高庄氏だが、入社後1週間ほどで、客先常駐を命じられた。

高庄氏が配属されたのは、大手通信企業の研究所。この場所とそこで出会った人によって、その後のエンジニア人生が決まったという

 入社の際に高庄氏は会社の人事担当者に、「事務計算はやりたくない。できれば制御系の仕事をやりたい」という意思表示はしていたという。ただし、そんな発言をしたこと自体、当の高庄氏は忘れていた。そう発言したからといって、仕事に対してこだわりがあったわけではないという。確かに、こだわりを持っていたならば、その発言自体を忘れないかもしれない。しかし、ここでかかわった仕事や仲間が、彼の将来に大きく影響することになる。

 彼の常駐先は、大手通信企業の研究所だった。ここで彼は、ソフトウェア生産管理や監視システムといったさまざまなプロジェクトに、メンバーとして参加することになる。彼は、そうして参加したプロジェクトで、コマンドセットの開発やソフトウェア部品(コンポーネント)の開発、コンポーネントの統合管理、ソースコードの文法解析の自動化などの業務を行った。圧縮アルゴリズムやオブジェクト設計といった先端技術も、ここで触れたという。

 こうした開発は、かなりの専門性を要する業務のように思える。大学3年と専門学校1年という微妙な経歴が、即戦力に役立ったのだろうか? そのことを問うと高庄氏は、「最初は言葉が通じない外国に投げ出された感じでしたね。何のことを話しているのかさえぜんぜん分からなかった。最初から覚悟していたことでしたが、学校での学習は何の役にも立ちませんでしたね」という。現場での実践の積み重ねが、彼を鍛えたようだ。

 先輩たちが使う単語が一般的なコンピュータ用語なのか、それとも固有の用語なのか検討がつかなかったという。そこで毎日辞典で調べてみても、その単語がどこにも載っていないことばかりだったという。では、どのようにして用語やその意味を学んだのだろうか? 「結局は、繰り返しですよ。まだオープンシステムなんて言葉がなかった時代ですから、メーカー独自のデータシートやマニュアルを、時間があれば読みあさっていました」という。まさに“習うより慣れろ”のエンジニア社会である。

 当時は、徹夜が当たり前だった。メインフレームが相手ともなれば、そのテスト作業は通常の業務が終了し、バッチ処理なども終了した夜中から開始する。当時よく見られた現場の光景だ(現在でも同じだろうが)。あるソフトウェアを納品しテストも終え、実稼働になった途端にマシンがダウンして、丸3日間徹夜した経験があるという。この当時の思い出として高庄氏は、真夜中までの待ち時間をつぶすために、仲間と夕食を食べにいき、ついついアルコールが入り、夜中に研究所に戻ったところ、警備員から締め出されたことを懐かしそうに語ってくれた。

■退職した理由とは

 このように、毎日が不規則な生活だったが、別に不満はなかったと高庄氏はいう。しかし、研究所に常勤になって4年を超えるころに会社を退職した。「会社に対する帰属意識は、もともと持っていなかったですね。仕事を一緒にしているほかの技術者たちに対する仲間意識は強く持っていましたけど」と、本音をはっきりと語る。

 実は辞めるきっかけとなるあることが起きた。彼は基本的に、クライアントに頼まれたことは、ノーといわずに業務をこなしたいと考えていた。しかし、企業に属する立場としては、残業が増える一方になってしまうので、すべてを請けるわけにもいかない。

 あるとき、顧客の1人に頼まれた仕事に対して、残業が増えるためにできないと伝えたところ、個人の仕事として請けてもらえないかといわれたのである。このとき、「技術屋は腕次第である」と認識し、「自分の力によって対価を取れる環境にしたい」と考えるようになる。

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最前線で必要なスキルとキャリアを知る! 第5回
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私が経営者に至るまでのスキルとキャリアの遍歴(2/3)
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