第3回 アップル中興の祖の終わりなきオデッセイ
脇英世
2009/5/14
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ジョン・スカリー(John Sculley)――
元アップル会長兼CEO
ジョン・スカリーは、ペプシコの社長からアップルコンピュータに転身した。天才的なマーケティング手腕を発揮し、10年間でアップルの売上高を6億ドルから80億ドルに躍進させた。1985年、彼は術策を弄(ろう)し、宮廷クーデターで創立者ジョブズを追放。その8年後には自分が追放されることになった。
ジョン・スカリーは、1939年ニューヨークに生まれた。スカリーは1960年ブラウン大学在学中に、ペプシコーラなどで有名な食品会社ペプシコの、当時会長だったケンドールの娘と結婚する。スカリーは建築学専攻であったが、ケンドールの影響を受けて、結婚を機にマーケティングへ転向する。スカリーはペンシルベニア大学ウォートン校のビジネススクールに進み、経営学修士号(MBA)を取得する。
1963年、スカリーはニューヨークの広告代理店、マッキャン・エリクソンに入社する。ここでの仕事は、コカ・コーラの市場調査だった。ペプシコ会長の義理の息子がコカ・コーラの秘密の市場調査に関与することは本来道義的には許されないことであるが、スカリーはそれを行った。
1965年、スカリーはケンドールの娘と離婚するが、同じ年ケンドールは妻と離婚している。1967年、スカリーはケンドールのペプシコに入社する。これも屈折している。スカリーは市場調査部からマーケティング部へと進む。ここでスカリーは経費節減のため、非情な解雇を断行する。
また、広告の改善、ロゴマークの標準化、大型パッケージの導入などによってスカリーは成績を上げる。国際事業部を経験した後、1977年ペプシコの社長となる。スカリーは、マーケティングは芸術だという信念を持ち始める。大胆な広告とマーケティング戦術の採用によって1982年ごろ、スカリーの率いるペプシコーラは、一時的にコカ・コーラに対して勝利を収める。
さて、アップルコンピュータに目を移そう。1970年代に大成功を収めたアップルII に続いて1980年にアップルIII が発表されたが、これは完全な失敗だった。さらに悪いことに、肥大を続けるアップルには大企業としての方法論と組織論が欠如しており、人事管理体制、計画的なマーケティング戦略、開発・製造・販売戦略、製品サポート体制がなかった。それでも1980年には、株式上場を見越した製品別の新組織体系が作られた。
1981年8月、IBMがパソコン市場に参入したとき、アップルが出した「ウェルカムIBM」という有名な広告がある。しかし、コンピュータビジネスにおけるIBM参入の意味を、アップルが本当に理解していたかどうかは疑わしい。1981年を境にして、パソコン業界はホビー産業からビジネスへと移行していった。当然、組織論の重視とマーケティング指向が要求されたが、アップルはそれに追い付いていけなかった。
このため1981年には大量の在庫を出し、2000人の社員の解雇に踏み切らざるを得なくなった。アップルは、ホビーストの会社だった。売り上げが大企業並みとなっても、組織形態はガレージ産業そのままだったのである。1982年になってもアップルは新製品を出すことができず、再び旧来のアップルII を手直ししてアップルII eを出さざるを得なかった。
1983年にアップルはLISAを出すが、これは主としてマーケティングの見通しのつたなさから失敗した。マシンそのものは決して悪くはなかったが、アップルに忠誠を誓うユーザーには何といっても高すぎた。この年、アップルは自社に欠けていたマーケティングとマネジメントの専門家を補うことを決定した。
1983年、スカリーはアップル会長スティーブ・ジョブズの有名なセリフ「あなたは自分の人生の残りを砂糖水を売るのに費やすんですか? 世界を変える機会を得たくはないんですか?」に説得されてアップルへ移る。
1984年、アップルの浮沈を賭けて出した新製品がマッキントッシュである。このときの宣伝は、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を意識しており、話題となった。マッキントッシュが出たとき、スティーブ・ジョブズは「パソコンにはこれだけが必要であり、これ以上何が必要か」と断じた。マッキントッシュは、それほど野心的なパソコンであった。しかし一方で、この言葉に象徴されるように、出現当時のマッキントッシュは、排他的な閉じたパソコンであり、オープン性を渇望するアップルII 以来のユーザーの猛烈な非難を浴びた。マッキントッシュの売り上げは、あるところで止まってしまった。
1984年、マッキントッシュの発売に伴い、LISAはマッキントッシュXLと名前を変えたが、その後消滅した。またアップルII cが発売された。この年の秋、マッキントッシュはユーザーの要請を受け入れて、メモリを512Kバイトに増やしてマッキントッシュ512Kとなる。メモリも追加できるようになり、ハードディスクも付けられるようになった。マッキントッシュはアーキテクチャの公開へと向かう。また、以後、「インサイド・マック」のような内部解析資料が出てくることになる。
1985年、ジョン・スカリーは突然スティーブ・ジョブズのアップル会長職を解いて、全権を掌握する。1年前に「アップルには1人のリーダーがいる。スティーブとわたしだ」とスカリーは乾杯の音頭をとったばかりである(*1)。それほど親しい関係を誇示していたにもかかわらず、スティーブ・ジョブズ追い出しの際のスカリーの措置は極めて冷酷だった。このときまで、スカリーはほとんど目立たない存在だった。東海岸のビジネス社会からやってきたスカリーは、西海岸の自由なアップルの社風を、努めて勉強しているというふうだった。しかし、スカリーが一度研ぎすました牙をむくとすごかった。単に追い出すだけでなく、2度とパソコン業界へ戻らないことを約束させた。
(*1)ダイナミック・デュオといわれたこともある。 |
全権掌握に伴い、スカリーは従来の製品ごとの事業部制を廃止し、マーケティング中心にアップルを通常の企業形態に改組する。スティーブ・ジョブズに代わったスカリーは、順調にアップルを浮上させた。有効だったのは、非情なまでの従業員のレイオフ(首切り)と近代的な組織論の導入だったろう。幸運も手伝った。1985年、マッキントッシュ用のDTPソフトがヒットし、マッキントッシュの売り上げが上昇し始める。マッキントッシュは巻き返したのだ。スティーブ・ジョブズは不運であったともいえる。歴史に「もし」はないが、運というものはある。1985年5月、DTP用プリンタ、レーザーライターが出ている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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