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IT業界の冒険者たち

第16回 ルータの革命企業ジュニパーの創立者

脇英世
2009/6/5

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

スコット・クリーンズ(Scott Kriens)
プラディープ・シンドゥー(Pradeep Sindhu)――
ジュニパー・ネットワークス創業者

 インターネット関連企業のルータ分野について見てみると、従来まではシスコシステムズが独占的なシェアを持っていた。同社は1984年にレオナルド・ボサックとサンドラ・レルナーの2人が、ルータの専門会社として設立した歴史を持つ。現在では、ジョン・チェンバースが社長兼最高経営責任者として、会社を切り回している。シスコは市場価値としては世界最高の企業であり、マイクロソフトもインテルもかなわない。ネットワークの名門であるケーブルトロンも3Comも、シスコによって完膚なきまでにたたきのめされた。特に3Comは長く指揮を執ってきたエリック・ベナムが引退に追い込まれるほどの被害を受けた。

 しかし、最近このシスコの牙城に激しく切り込んできた企業がある。それは、ジュニパー・ネットワークス(以下ジュニパーと略)である。ジュニパーが参入したおかげで、シスコのシェアは85%に後退し、代わりとしてジュニパーが15%のシェアを持つに至った。

 ジュニパーを創立したのは、スコット・クリーンズという人物である。1957年生まれであることは分かっているが、出生についてはほかに情報を得られなかった。かなりの有名人であるのに、何も分からないというのは、プライバシーに関して意図的に伏せているからだろう。

 1979年、スコット・クリーンズはカリフォルニア州立大学へイウッド校で経済学の学位を取った。このことは公的な経歴として残っている。その後は、タンデム・コンピュータに勤務した記録があるが、いきなり同社に入社したのか、それともいろいろ経験を積んでから入ったのかは、はっきりしていない。同様に、タンデム・コンピュータでどのような職に就いていたのかについても、記録が残っていない。

 1986年にスコット・クリーンズは、後にシスコによって買収されるストラタコムという会社を設立した。ストラタコムではセールスとオペレーション担当の副社長を務めていたため、設立者といっても共同設立者の1人であったのだろう。インターネットで米国のサイトを調べていて困るのは、買収された企業のホームページがまったく消されてしまうことである。そこで、新聞記事も徹底的に調べてみたが、設立当時にスコット・クリーンズは無名であったらしく、検索にまったくヒットしなかった。

 ストラタコムという会社自体は、ATMセル交換機やIPXセル交換機、フレームリレー交換機などを生かした製品を作った。DECがストラタコムの株式の1割を所有していたことや、AT&Tなどに製品を納めていた実績を持っており、定評ある企業だった。

 1992年にストラタコムは株式を上場した。経営は順調であった。続いて、1996年にシスコがストラタコムを買収する。買収価格は40億ドル、つまり日本円に換算して4000億円以上であり、これは当時のシリコンバレーで最大級の買収劇となった。このことによって、設立者のスコット・クリーンズは、巨額の富を手中にしている。そして1996年に入ると、スコット・クリーンズはいよいよジュニパーを設立して、社長兼会長兼最高経営責任者に納まった。

 ジュニパーの最高技術責任者は、ゼロックスのパロアルト研究所から来たプラディープ・シンドゥーというインド人である。ジュニパーの社内にはプラディープ・シンドゥーを中心として、ソフトウェアとハードウェアの開発チームが作られた。1953年生まれの47歳で、カーネギー・メロン大学のコンピュータ科学科で博士号を取得した経歴を持つ。

 スコット・クリーンズの経歴と並んで、プラディープ・シンドゥーの個人業績を調べるのも大変難しい。「いまだ知られていない英雄の1人」といわれている。これからジュニパーが有名になれば、いろいろな逸話が明らかにされていくだろう。

 ゼロックスのパロアルト研究センターの歴史的刊行物一覧を調べてみると、プラディープ・シンドゥーはコンピュータ科学研究所部門に在籍しており、次のような研究成果報告を残している。まず、1988年の「VLSIデザインエイド・キャプチャー、インテグレーション、レイアウト生成」という研究成果報告だが、これはVLSIのデザインツールの研究である。そして、1991年には「メモリモデルの形式仕様」という研究成果を報告した。これは簡単な表題だが、共有メモリとマルチプロセッサの高速相互接続においての研究である。

 プラディープ・シンドゥーは、パロアルト研究所時代の研究を生かして、サン・マイクロシステムズに移った際に同社初の高性能マルチプロセッサファミリであるSS1000とSS2000を開発したといわれている。

 ジュニパーの技術系の創立メンバーはもう2人いる。1人はサン・マイクロシステムズからやってきたビョーン・リエンクレである。この人物は、サン・マイクロシステムズの前にはIBMに勤め、ハイエンドシステムにおける光ファイバESCONチャネルを含む入出力チャネルの開発に当たった。サン・マイクロシステムズに移ると、SS1000とSS2000におけるASIC開発の指揮を執った。また、ウルトラ・エンタープライズ・サーバ・ファミリのアーキテクトであった。

 もう1人は、MCIコミュニケーションズから移ってきたデニス・ファーグソンである。こちらは、MCIの先進ネットワークサービス部門に勤め、ルータの開発に加えて、大規模インターネットバックボーンネットワークにおけるルータ技術の展開に寄与した。また、超高速バックボーンネットワークシステムであるVBNSをインプリメントし、MCIのインターネットサービスを計画した。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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